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## 秘められた甘い罠

春の陽光が、アスファルトの熱を優しく包み込む季節。田中香織は、いつものようにスマートフォンを片手に、駅へ向かう道を歩いていた。手首には、指輪が鈍く光っている。結婚して五年、夫の健一は大手企業に勤める真面目なサラリーマン。香織自身も、出産を経て現在は派遣社員として、近所の小さなデザイン事務所で働いていた。

「あー、今日はちょっと肩が凝ってるな」

香織は、肩を回しながらため息をついた。派遣社員という立場は、確かに正社員に比べれば自由度は高い。定時で帰れるし、有給休暇も比較的取りやすい。しかし、その分、責任の重さや昇給の見込みといった面では、どうしても見劣りする。それに、周囲の正社員の目。時折感じる、どこか見下すような、あるいは同情するような視線に、香織は時々胸が締め付けられるのを感じていた。

「でも、まぁ、健一さんもいるし、贅沢は言えないか」

そう自分に言い聞かせながら、事務所に到着した。しかし、その日の香織の日常は、思わぬ方向へと転がり始めることになる。

「香織さん、ちょっといいですか？」

事務所の社長、松本が、いつになく真剣な顔で香織を呼び止めた。松本は、香織が入社して以来、常に朗らかで、社員を大切にしてくれる人だった。

「はい、なんでしょうか？」

「あのね、来月、社員旅行を企画してるんだ」

「社員旅行、ですか？」

香織は意外に思った。この事務所は、香織を入れても社員はたったの四人。それに、派遣社員である自分も誘われるのか、と少し緊張した。

「ええ、実はね、取引先の田中建設さんから、慰安旅行のお誘いがあったんだ。うちの事務所と、田中建設さんの関連会社数社合同でね。それで、派遣の香織さんも、もちろん一緒に行ってもらいたいんだよ」

松本は、悪気のない、むしろ善意に満ちた笑顔で言った。しかし、香織の胸の奥に、かすかな不安が芽生えた。田中建設。それは、夫の健一が属する、あの田中建設だった。

「あの、私…」

「大丈夫だよ、香織さん。みんなでワイワイ楽しむのが目的だから。それに、田中建設さんの社員さんも、みんな温かい人たちだよ」

松本は、香織の不安を察したのか、安心させるように続けた。しかし、香織は、夫の会社名を耳にするたびに、何とも言えない気まずさを感じていた。

「…はい。承知いたしました」

香織は、断る理由を見つけられず、曖昧に頷いた。

慰安旅行は、近郊のリゾートホテルで行われることになった。初日は、懇親会。二日目は、自由行動だった。香織は、健一に旅行の計画を話すべきか、迷った。しかし、結局、「会社の研修旅行」だと偽ってしまった。健一は仕事が忙しく、あまり家にいないことも多かったし、軽々しく話せるような内容でもない気がしたのだ。

旅行当日。香織は、少し緊張しながらも、期待感も抱いていた。新しい顔ぶれとの交流。普段とは違う、リフレッシュできる時間。

ホテルに到着すると、そこには想像以上に多くの人々がいた。田中建設の社員はもちろん、関連会社の社員もいる。皆、華やかな服装で、談笑している。香織は、少し場違いな気がした。

「ようこそ、田中建設です！本日は、皆様をお迎えできて大変光栄です！」

主催者である田中建設の重役、山本が、大きな声で挨拶をした。その顔は、どこか威圧的で、香織は思わず目を逸らした。

懇親会は、予想以上に賑やかだった。美味しい料理と、賑やかな音楽。しかし、香織は、どこか馴染めなかった。派遣社員という立場。それゆえの、周囲との微妙な距離感。

「田中建設の社員さんと、仲良くしてあげてくださいね」

松本が、香織の肩を叩きながら言った。香織は、愛想笑いを浮かべた。

その夜。懇親会も終わり、香織は自室に戻った。一人で、静かに過ごそうと思っていた。しかし、部屋のドアがノックされた。

「香織さん、お疲れ様です」

ドアを開けると、そこには、田中建設の社員、佐々木が立っていた。香織とは、懇親会で何度か話したことがある。

「佐々木さん、どうしました？」

「いや、ちょっと、お話したくて。一人ですか？」

佐々木は、香織の部屋を覗き込むように言った。香織は、少し戸惑った。

「はい、一人ですけど…」

「じゃあ、ちょっと、うちの部屋で飲み直しませんか？田中建設の連中と、二次会やってるんです」

佐々木は、悪意のない、むしろ誘うような笑顔で言った。香織は、断るべきか迷った。しかし、断れば、せっかくの交流の機会を逃してしまう。それに、田中建設の社員ともっと話せば、何か変わるかもしれない。

「…わかりました」

香織は、意を決して佐々木の部屋へと向かった。

部屋に入ると、そこには、田中建設の社員が数名いた。皆、すでにかなり酔っている様子だった。香織が入ると、一斉に視線が香織に集まった。

「おお、香織ちゃん、来た来た！」

「おう、よく来たな、香織ちゃん！」

皆、香織を「香織ちゃん」と呼び、親しげに話しかけてきた。香織は、少し気まずさを感じながらも、笑顔で応じた。

「いやー、香織ちゃん、可愛いね！」

「香織ちゃんは、独身？」

「いや、結婚してるって、さっき聞いたよ」

「へぇー、結婚してるのか。旦那さんは、どんな人？」

田中建設の社員たちは、香織のプライベートな質問を遠慮なくしてきた。香織は、夫の健一のことを、できるだけぼかして話した。

「あの、私、そろそろ部屋に戻りますね」

香織は、場の雰囲気に馴染めず、席を立とうとした。

「えー、もう帰っちゃうの？まだまだこれからじゃないか！」

「そうそう、香織ちゃん、もっと飲んでいきなよ！」

田中建設の社員たちは、香織を引き留めようとした。香織は、断りきれず、再び席に着いた。

その夜、香織は、田中建設の社員たちと、夜遅くまで酒を飲んだ。話すうちに、彼らの思惑が、香織の耳に断片的に届いてくるようになった。

「派遣社員って、なんか、気楽でいいよな」

「いつでも『切れる』から、ちょっとした『つまみ食い』くらい、許されるんじゃないの？」

「慰安旅行って、そういうもんだろ？」

彼らの言葉に、香織は戦慄した。自分たちは、派遣社員という立場を、性的な対象として見ているのか？「慰安旅行」という言葉の裏に、そんなゲスい意図が隠されていたのか？

香織は、自分が利用されているのではないか、という恐怖に襲われた。しかし、すでに、アルコールと場の雰囲気に流され、自分自身も、彼らの誘いを断ることができなくなっていた。

翌朝、香織は、記憶が曖昧なまま、ホテルの一室で目を覚ました。隣には、見知らぬ男性が眠っている。香織は、心臓が凍りつくような感覚に襲われた。

「これは、夢…？」

しかし、現実は、あまりにも生々しく、残酷だった。

後日、香織は、この一件を誰にも言えずに、ただただ苦しんだ。夫の健一にも、もちろん話すことはできなかった。派遣社員という立場。それは、社会的な弱者であると同時に、性的な対象としても見られやすい存在なのかもしれない。

「いつでも『切れる』からこそ、ちょっとのつまみ食いはOKとでも思っているのか？」

あの夜、誰かが言った言葉が、香織の頭の中で反響する。

「悪い奴らが流出させた映像、第3号！」

香織は、ふと、SNSで流れている、ある噂を思い出した。それは、慰安旅行での流出映像に関するものだった。まさか、自分も、そんな映像に、そんな悲惨な結末に、繋がってしまうのだろうか？

香織は、スマートフォンの画面を凝視した。そこには、夫の健一との、幸せだった頃の写真が写っていた。あの日の夜の出来事は、香織の日常に、そして、夫婦の絆に、静かな、しかし深い亀裂を生み入れていくことになるのだった。

派遣社員という立場。それは、時として、予期せぬ甘い罠へと誘う、危険な側面も持ち合わせているのかもしれない。香織は、その事実を、あまりにも重く、そして、あまりにも悲しく、噛みしめるしかなかった。