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## 派遣の人妻と、消えた慰安旅行

梅雨の気配が濃くなり始めた6月。佐藤優子は、いつものように駅前のビルにそびえるIT企業のフロアで、モニターを睨んでいた。派遣社員として勤めて5年。契約更新を繰り返しながら、正社員の陰で黙々とデータ入力と資料作成に勤しむ日々は、まるで色褪せた風景画のようだった。

「優子さん、お疲れ様です！」

隣の席の佐藤美咲が、明るく声をかけてきた。彼女もまた、優子と同じ派遣社員。20代後半で、夫の転勤についてきたばかりだ。

「美咲ちゃん、お疲れ様。今日も残業？」

「いえ、今日は大丈夫です。それにしても、この暑さ、たまりませんねー。早く夏にならないかな。」

美咲の屈託のない笑顔に、優子は微かに微笑んだ。自分には、そんな風に季節の移ろいを無邪気に喜ぶ余裕は、もう久しくない。家族のため、生活のため。踏ん張るしかなかった。

そんなある日、フロアに bombaが投下された。

「皆さん、ちょっとお集まりください！」

派遣担当の社員、田中が、いつもより一層興奮した様子で言った。優子たちは、何事かと顔を見合わせた。

「あの…田中さん、何かありましたか？」

美咲が恐る恐る尋ねると、田中はニヤリと笑った。

「実はですね、皆さんに…なんと！慰安旅行に招待することになりました！」

フロアにどよめきが走った。派遣社員が慰安旅行？しかも、この会社で？

「えっ、本当ですか！？ど、どこへ行くんですか？」

誰かが興奮して質問した。田中は、指をぱちんと鳴らした。

「それは…秘密です！でも、最高の場所で、最高の思い出作りをしましょう！来週の金曜日、半休取って、皆で出発です！」

派遣社員である優子たちにとって、慰安旅行など夢のまた夢だった。普段は「都合の良い駒」として扱われることもしばしば。そんな彼女たちが、まさか会社から「慰安旅行」に招待されるなんて。

「すごいね、優子さん。信じられない！」

美咲は目を輝かせている。優子も、胸が高鳴らないわけではなかった。せめて、この慰安旅行で、日常の喧騒から少しでも離れてリフレッシュできたら。そう、漠然と思っていた。

しかし、その「慰安旅行」が、想像を絶する事態を引き起こすことになるとは、この時の優子たちは知る由もなかった。

翌週金曜日。指定された時間になると、優子たちは会社の前に集合した。集まってきたのは、優子と美咲を含め、派遣社員の女性たち数名。そして、彼女たちを乗せるための、少し古びたマイクロバスが停まっていた。運転手は、派遣担当の田中だった。

「皆さん、お待たせしました！さあ、出発しましょう！」

田中は嬉しそうに言う。バスに乗り込むと、車内は期待と不安の入り混じったざわめきに包まれていた。目的地はやはり明かされず、田中は「サプライズです！」と笑うばかり。

バスはしばらく走った後、人里離れた山間へと入っていった。窓の外には、鬱蒼とした森が広がり、次第に舗装された道も狭くなっていく。

「あの…田中さん、本当にこの道で合ってるんですか？」

助手席に座っていた田中が、不安そうに尋ねた。

「大丈夫、大丈夫！ちょっとした冒険ですよ！」

田中は自信満々に答えるが、その表情にはどこか余裕のない影がよぎった。

やがてバスは、開けた場所に出た。そこには、古びた一軒家があった。庭には、洗濯物が干され、田舎の風景そのものだった。

「え、ここが…？」

美咲が戸惑った声を上げた。田中は、バスを停めると、嬉しそうに言った。

「はい！今日の我々の宿です！どうですか、趣があっていいでしょう？」

しかし、その「宿」は、想像していたようなリゾートホテルでも、静かなペンションでもなかった。むしろ、廃屋に近いような、薄暗い雰囲気の家だった。

「いや、あの…」

優子が言葉を詰まらせていると、田中は強引に話を続けた。

「まあ、細かいことは気にしないでください！今日は皆さんで、ゆっくり羽を伸ばしましょう！ barbecueも用意してありますよ！」

田中は、そう言って庭に運び込まれた食材を指差した。しかし、そこに用意されていたのは、肉や野菜というよりも、空き缶や、開封済みのスナック菓子、そして見慣れない色の液体が入ったペットボトルがほとんどだった。

「これ… barbecue…？」

優子は、思わず言葉を失った。美咲も、顔色を失っている。

「田中さん、これは…一体…」

「あ、これはですね、ちょっと変わった趣向で。地元の食材にこだわってみたんです！さあ、遠慮しないで！」

田中は、強引に優子たちの肩を叩き、庭へと誘い出した。彼女たちは、もはや拒否する気力もなく、促されるままに庭に座り込んだ。

「せっかくですから、皆さん、一杯どうですか？」

田中が差し出したのは、先ほどの見慣れない色の液体が入ったペットボトルだった。ラベルはなく、中身は濁った黄色をしている。

「これは…何ですか？」

美咲が、怯えたように尋ねた。

「あ、これはですね、自家製の「秘伝のタレ」です！飲むと、体の芯から温まりますよ！」

田中は、そう言って自分も一口飲んだ。そして、ニヤリと笑った。

「どうです？私、こういう「特別」なことが好きなんですよ。」

その言葉に、優子は嫌な予感がした。普段の田中とは違う、どこか歪んだ、粘着質な雰囲気に、彼女の背筋は寒くなった。

「あの、私、ちょっと気分が悪いので、少し休ませてもらいます。」

優子は、そう言って立ち上がった。

「え、もう帰るんですか？せっかく来たのに。」

田中の声が、背後から追いかけてくる。

「いいえ、休むだけです。少し、涼みたいので。」

優子は、そのまま家の中へと入っていった。薄暗い家の中は、さらに空気が澱んでいるように感じられた。

彼女が部屋に駆け込もうとした、その時だった。

「待ってください！」

背後から、美咲の声が聞こえた。優子は振り返った。美咲は、田中に腕を掴まれていた。

「美咲ちゃん！？」

「田中さん、私…」

美咲が言葉を遮られる。田中は、美咲の顔を覗き込み、耳元で何かを囁いた。美咲の顔が、みるみるうちに青ざめていく。

「私、やっぱり、帰ります。」

優子は、決意を固めた。このままここにいても、ろくなことにならない。

「優子さん、ダメ！」

美咲の悲鳴が響く。優子は、美咲の元へ駆け寄ろうとした。しかし、田中の手によって、優子の足元に、何かが撒き散らされた。

「うっ…！」

優子の頭がくらくらする。視界がぼやけ、足元がおぼつかない。

「大丈夫ですか、優子さん！？」

美咲の声が遠くなっていく。優子は、その場に倒れ込んだ。

気がつくと、優子は薄暗い部屋の片隅に横たわっていた。体は鉛のように重く、頭はまだぼんやりしている。

「…私…」

優子は、ゆっくりと体を起こした。辺りを見回すと、そこは先ほどの barbecue が行われていた庭ではなかった。どうやら、家の奥の部屋のようだ。

「美咲ちゃん…？」

優子は、美咲の名前を呼んだ。しかし、返事はない。

その時、遠くから、複数の女性たちの、うめき声のような、そして、何かを堪えるような声が聞こえてきた。それは、慰安旅行に参加していた他の女性たちの声だろうか。

優子は、胸騒ぎを抑えきれず、部屋のドアを開けた。廊下はさらに暗く、カビ臭い匂いが鼻をついた。

「…何なの、ここ…」

優子は、足音を忍ばせながら、奥へと進んだ。

やがて、彼女は一つの部屋の前に辿り着いた。ドアは少しだけ開いており、中から物音が聞こえる。

優子は、そっとドアの隙間から覗き込んだ。

そこには、信じられない光景が広がっていた。

薄暗い部屋の中央には、粗末なテーブルが置かれている。そして、そのテーブルを囲むように、数人の女性たちが座っていた。彼女たちの顔は、疲労と、それ以上に、深い絶望に覆われていた。

そして、テーブルの上には、先ほど田中が「秘伝のタレ」と呼んでいた、あの濁った黄色の液体が入ったペットボトルが、いくつも並んでいた。

「…まさか…」

優子は、喉に言葉を詰まらせた。

「これが…「慰安旅行」…？」

彼女たちの「慰安旅行」は、密やかな、そして、あまりにも陰鬱な「宴」へと姿を変えていたのだ。

優子は、息を呑んだ。これは、単なる慰安旅行ではなかった。それは、派遣社員という立場の弱さを、そして、女性という立場を利用した、卑劣な「取引」だったのかもしれない。

「切れる」からこそ、つまみ食いはOK？

田中が言っていた言葉が、優子の頭の中で蘇る。

「いつでも「切れる」」…それは、派遣社員という立場を指していたのだろうか。いつでも契約を解除され、社会から「切られる」可能性のある存在。だからこそ、少しの「つまみ食い」は許される、という歪んだ論理が、そこにはあったのかもしれない。

優子は、身震いした。このままここにいては、自分もあのテーブルに座ることになる。

優子は、決意を固めた。誰かが、この事態を外部に知らせなければならない。

優子は、そっとドアを閉め、来た道を戻り始めた。足音を立てないように、慎重に。

この「慰安旅行」の流出映像が、誰かに見つかり、この秘密が暴かれることはないだろうか。

優子の心は、不安と、そして、かすかな怒りで燃え上がっていた。

彼女は、ただ静かに、この地獄から逃れることだけを考えていた。そして、この出来事を、誰かに伝えなければならない、と。

派遣社員として、人妻として。彼女たちの置かれた状況の、あまりにもゲスすぎる実態を。