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## 腐海の匂い

香織は鏡に映る自分の姿を凝視した。163センチ、47キロ。34歳。結婚して二年、子育てと家事に追われる日々は、かつての華やかさを影に潜ませた。それでも、鏡の中の女性は、どこか満たされた表情をしていた。少なくとも、顔は。

しかし、その穏やかな表情の裏側には、常に燻る不安があった。それは、彼女自身の体臭、いや、足臭というべきかもしれない。25センチの小さな足からは、独特の、強烈な酸っぱい匂いが立ち昇る。それは、若い頃の初々しい酸味とは全く異なる、熟成された、いや、腐敗したような酸っぱい匂いだった。

一作目、つまり結婚前の小説では、この足臭は「すっぱ系」と表現された。しかし、二年を経た今、その匂いは進化、もしくは退化していた。捨て犬が雨に打たれ、乾いた土に転げ回ったような、獣臭さと酸っぱい匂いが混ざり合った、とんでもなく不快な臭気。

彼女は、この匂いに悩まされてきた。出会いの場では、可能な限り足元を隠すように心がけ、デートの終わりには、必ず足を洗ってから帰宅した。夫の健太は、幸いにも、この匂いに鈍感だった。いや、鈍感というよりは、彼女のすべてを受け入れてくれるほど、深く愛してくれていたのだ。

「ねえ、香織。今日、夕飯何にする？」

健太の優しい声がキッチンから聞こえてくる。彼女は深呼吸をして、不快な匂いを抑え込むように、香りの強い柔軟剤で洗ったタオルを鼻に当てた。彼女の体には、フローラル系の香水の香りがほんのり漂っていた。ボディクリームも、高級なオーガニックのものを使っている。それは、足元の異臭を隠すための、必死の抵抗だった。

しかし、この「理想」への挑戦は、常に不完全なものだった。確かに、体は良い香りがする。洗練された香りは、清潔感と女性らしさを演出する。しかし、その完璧な香りのヴェールの下に、獣のような酸っぱい匂いが潜んでいる。それは、まるで、美しい宝石箱に、腐敗した果実が隠されているような、不穏なコントラストだった。

さらに、最近では、腋からも気になる臭いがするようになった。中度のワキガ。それは、足臭とはまた異なる、甘酸っぱい、いや、発酵したような独特の匂いだ。以前は、制汗剤と香水で何とか抑えられていたが、最近は、それだけでは不十分になってきた。

彼女は、かつては、この体臭を、自身の個性と捉えようとしていた。誰にも真似できない、独特の魅力だと。しかし、子育てに追われ、自分のケアに十分な時間を割けない日々の中で、その「個性」は、重荷になりつつあった。

彼女は、小説を書くことで、自分の苦悩を吐き出そうとしていた。二作目の小説は、主人公が自分の体臭に苦悩する、自伝的な要素の強いものになるだろう。しかし、その現実と向き合うことは、想像以上に困難だった。

ある日、健太が、香織の足元をじっと見つめていた。彼女は、いつものように足を隠そうとしたが、健太は何も言わなかった。ただ、静かに、彼女の顔を優しく撫でた。

「疲れてるんだね」

その言葉に、香織は涙をこぼした。彼女は、自分の体臭を、愛する夫に隠す必要はないのかもしれないと、初めて思った。

しかし、同時に、彼女は自分の体臭と向き合わなければいけないと感じていた。医師に相談し、適切な治療を受け、この苦しみから解放されたい。そして、いつか、この「腐海の匂い」を、小説の題材として、客観的に、そして、静かに表現したい。それは、彼女の新たな挑戦であり、自身の解放への道だった。

彼女はパソコンに向かい、小説のタイトルを入力した。「腐海の匂い」。その言葉には、苦悩と、希望が混ざり合っていた。それは、彼女自身の物語であり、そして、多くの女性たちの共感を得られる物語になるかもしれない。彼女は、キーボードを叩きながら、静かに、そして力強く、自身の物語を綴り始めた。それは、酸っぱい匂いと、甘酸っぱい匂い、そして、かすかな希望の香りが混ざり合った、複雑で、しかし美しい物語だった。