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「今日はなんかクラスに行きたくないな…」

空はどんよりと曇り、私の心模様を映し出すかのようだ。いつもなら、友達と話したり、授業の合間にこっそりお菓子をつまんだり、それなりに楽しい時間も過ごせるはずなのに。今日は、そのどれもが億劫だった。校門をくぐり、教室のドアを開ける勇気が、どうしてか湧いてこない。

「…やっぱり、無理かも」

そう呟くと、足は自然と校門とは逆方向へと向かい始めた。周りの喧騒から逃れるように、街の片隅へとフラフラとさまよう。特にあてもなく、ただただ歩く。どこへ行くのか、何をしたいのか、自分でも分からなかった。

ふと、視線を感じた。見上げると、少し離れた場所に、穏やかな顔をした中年男性が立っていた。白髪交じりの髪は整えられ、温かみのあるセーターを着ている。その人は、私に微笑みかけ、ゆっくりと近づいてきた。

「こんにちは。どうしたんだい？ 元気がないみたいだけど」

その声は、まるで日向のように暖かかった。警戒心と、ほんの少しの安堵感が入り混じる。

「…別に、なんでもないです」

私はぶっきらぼうに答えた。こんな見知らぬ人に、自分の弱さを見せるのは恥ずかしい。

「そうかい？ でも、もしよかったら、話くらいは聞くよ。学校に行きたくないって、そういう日もあるだろう？」

男性は、私の返答にめげず、さらに優しく語りかけた。その言葉には、無理強いするような響きは一切なく、ただ純粋な気遣いだけが感じられた。

「…」

言葉を詰まらせていると、男性は続けた。

「私はね、君たちみたいな、ちょっと学校から足が遠のいてしまう子たちのお手伝いをしているんだ。だから、もしよかったら、少しだけ、お茶でも飲みながら話さないかい？ 君の気持ちが少しでも楽になるなら、嬉しいんだけど」

「学校から足が遠のいてしまう子…？」

その言葉に、私は少しだけ興味を引かれた。まるで、私の気持ちを分かってくれるかのような響きがあった。そして、その提案は、今いるこの「何もしない」状態から抜け出すきっかけになるかもしれない、とも思った。

「…どこで？」

私の質問に、男性は嬉しそうに微笑んだ。

「私の家が近いんだ。よかったら、そこでゆっくり話そう」

戸惑いながらも、私は男性の言葉に頷いてしまった。学校をサボって、見知らぬ中年男性の家へ付いていく。正気ならありえない行動だ。でも、その時の私は、逃げ出したい気持ちと、誰かに助けてほしいという甘えが、巧妙に混じり合っていた。

男性の家は、古いけれど手入れの行き届いた一軒家だった。玄関を開けると、ふわりとコーヒーの香りが漂ってくる。リビングに通されると、そこは落ち着いた、温かい雰囲気の部屋だった。革張りのソファ、年代物の本棚、そして窓の外には小さな庭が見える。

「どうぞ、座って。コーヒーでも淹れるから」

男性は、私をソファに座らせると、キッチンへと向かった。私は、ソファに深く沈み込み、しばしぼうぜんと部屋を見回した。ここに来てしまって、本当に良かったのだろうか。一抹の不安が、じわりと胸に広がっていく。

コーヒーの湯気が立ち上る中、男性が戻ってきた。彼は、私の前にマグカップを置くと、私の隣に座った。そして、再びあの穏やかな笑顔を浮かべた。

「さあ、話してみてごらん。どんなことでもいいんだよ。君が、今、どう感じているのか」

私は、彼の言葉に励まされるように、ぽつりぽつりと話し始めた。学校での人間関係のこと、勉強のこと、将来のこと。言葉にするにつれて、胸の奥に溜まっていたモヤモヤが、少しずつ晴れていくような気がした。男性は、ただ黙って私の話を聞いてくれた。時折、相槌を打ったり、「うんうん」と頷いたりするだけ。でも、その存在が、私を安心させた。

「…なんて、すみません。なんか、勝手に話しちゃって」

話が終わると、私は照れくさそうに言った。

「いやいや、そんなことないよ。話してくれて、ありがとう。君が抱えているもの、少しでも聞けてよかった」

男性は、そう言って優しく微笑んだ。その顔は、先ほど玄関で会った時と同じ、温かい中年男性のものだった。私も、少しだけ心が軽くなったような気がした。

「さて、そろそろ帰らないと、心配されるだろう？」

男性がそう言った時、私は「あ」と小さく声を漏らした。確かに、もう遅い時間になっていた。

「…そうですね。ありがとうございます」

立ち上がろうとした、その時。

男性の顔色が変わった。

さっきまでの穏やかな表情は消え失せ、代わりに、底の見えないような冷たい光が、彼の目に宿った。

「いや、まだ帰る必要はないだろう？」

その声は、先ほどとはまるで別人のように、低く、そして粘りつくような響きを持っていた。

「え…？」

私は、突然の豹変に、息を呑んだ。

「君は、私に、自分の秘密を話してくれた。これは、とても貴重なことなんだ」

男性は、ゆっくりと立ち上がり、私の間近に迫ってきた。その顔は、もはや穏やかさの欠片もなく、歪んだ笑みが張り付いている。

「誰にも言えない、君の弱さ。それを、私だけが知っている。…それって、とても、興奮することじゃないか？」

彼の言葉は、私を恐怖のどん底へと突き落とした。これは、私が思っていたような、温かい相談室ではなかった。これは、もっと、暗く、そして恐ろしい場所だったのだ。

「…私、帰ります」

私は、震える声で言った。しかし、男性は私の腕を掴んだ。その力は、驚くほど強い。

「どこへ行くんだ？ まだ、大事な話は終わっていない」

彼の目は、獲物を狙う獣のようにギラついている。私は、必死に抵抗しようとしたが、その力には敵わない。

「放してください！ 誰か、助けて！」

私の叫びは、部屋の壁に虚しく響くだけだった。男性は、私の顔を覗き込み、不気味な笑みを深めた。

「大丈夫。誰にも聞こえないよ。君は、もう、私のものだ」

その言葉と同時に、部屋の明かりが、ゆっくりと消えていった。暗闇の中で、男性の執拗な囁きだけが、私の耳に届いていた。

「今日はなんかクラスに行きたくないな…」

あの軽い気持ちが、こんな悪夢へと繋がるなんて。私は、ただ、暗闇の中で、震えながら、助けを求めることしかできなかった。