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## 蜜月は裏切りの色

真昼の太陽は容赦なくアスファルトを焦がしていた。桜木美咲は、夫である健一の運転する車の助手席で、窓の外を流れる見慣れた景色に目を向けていた。しかし、その視線の先にあるのは、決して心を満たすものではなかった。健一との関係は、もう何年も前から静かに、そして確実に冷え切っていた。セックスレス。その言葉は、まるで呪文のように夫婦の間に横たわり、互いの温もりを奪い去っていた。

「ねえ、健一。今日のホテル、予約取れた？」

美咲の声は、どこか遠くで響くように、か細かった。健一はバックミラーに目をやり、無表情で頷いた。

「ああ。あの、いつものところだ」

いつものところ。それは、二人の記憶から温もりを剥ぎ取った、ただのビジネスホテルに過ぎなかった。結婚して十年。かつては愛し合い、未来を夢見た日々もあったはずだ。しかし、いつからか、夫婦の会話は事務連絡になり、夜は別々の布団で眠るようになった。健一は仕事に没頭し、美咲は家事と健一の帰りを待つだけの生活。その空虚さだけが、美咲の胸を締め付けていた。

「美咲、疲れてるだろ？ 部屋でゆっくり休んでくれ」

健一の声には、気遣いよりも義務感のようなものが滲んでいた。美咲は微笑もうとしたが、顔の筋肉はうまく動かなかった。この旅行も、夫婦の冷え切った関係を修復するための、健一なりの試みだったのかもしれない。だが、美咲の心はすでに別の場所へと向かっていた。

旅の初日、彼女は「偶然」を装って、かつての大学時代の友人、高橋涼介と連絡を取った。涼介とは、大学時代に燃えるような恋をした。卒業後、互いの道に進み、疎遠になったが、SNSで再会した時、美咲の心に火がついた。彼の写真に写る、精悍な顔つき、そして時折見せる悪戯っぽい笑み。それらは、健一の無関心な視線とは対照的で、美咲の秘められた欲望を掻き立てた。

「美咲？ 本当に美咲か？ 久しぶりだな！」

電話口から響く涼介の声は、あの頃と変わらず、低く、甘かった。美咲の心臓は、まるで初めて恋をした少女のように高鳴った。

「涼介、久しぶり。元気だった？」

「元気だよ。君こそ、どうしてる？ 最近、SNSで近況を見たけど、綺麗になったな」

その言葉に、美咲の頬は微かに赤くなった。健一に言われたのは、いつのことだっただろうか。いや、そもそも、そんな言葉をかけられた記憶すら曖昧になっていた。

「ありがとう。でも、私なんて、全然変わってないよ」

「そんなことない。瞳の輝きが違う。ねえ、今、どこにいるんだ？」

美咲は、健一が研修のために数日間出張に出ていることを、涼介に伝えた。そして、偶然にも、涼介もその都市に仕事で来ていることを知った。偶然？ それとも、美咲が仕組んだ必然だったのだろうか。

「じゃあ、会おうよ。久しぶりに、ゆっくり話したい」

涼介の提案に、美咲は迷うことなく頷いた。罪悪感？ それは、彼女の胸の奥底で、小さく、しかし確かに蠢いていた。だが、それ以上に、渇望していたものが、彼女の理性をも凌駕していた。

約束の夜、美咲はホテルの部屋で、普段は絶対に着ないような、胸元が大きく開いた黒のワンピースに身を包んだ。化粧も、いつもより念入りにした。鏡に映る自分は、まるで別人だった。夫に捨てられた、虚ろな女ではなく、これから何かが始まる、妖しい光を放つ女。

「まさか、こんなことになるとはな…」

涼介と待ち合わせているカフェで、美咲は一人、コーヒーを啜りながら呟いた。彼女の心は、期待と不安で嵐のように掻き乱されていた。夫がいるのに、別の男に会う。それは、紛れもない「浮気」という名の罪。しかし、その罪悪感よりも、未知への冒険心、そして何よりも、枯渇していた愛情と欲求が、彼女を突き動かしていた。

涼介は、約束の時間よりも少し遅れて現れた。相変わらず、堂々とした佇まい。美咲は、胸が高鳴るのを感じながら、立ち上がった。

「美咲！ 本当に君か？ 綺麗すぎて、見とれてしまったよ」

涼介の言葉に、美咲は照れながらも、確かな歓喜を覚えた。この、全身を包み込むような賞賛の言葉。これこそが、彼女が求めていたものだった。

二人は、近所の静かなレストランで食事をした。会話は弾み、昔話に花を咲かせた。しかし、その会話の端々には、互いの現在の生活への皮肉や、満たされない日常への不満が滲み出ていた。そして、その空気を埋めるように、二人の視線は絡み合い、言葉にならない熱が二人を包み込んでいった。

「健一さんとは、うまく行ってるのか？」

涼介が、ふと、健一のことを尋ねた。美咲は、一瞬言葉に詰まった。

「…あまり、ね」

「そうか。俺も、独身でいるのが性に合わなくて、一度結婚したんだが、すぐに別れてしまった」

「え、そうなんだ…」

「まあ、独身も気楽でいいんだけど、時々、誰かと深く繋がりたいって思うんだ」

涼介の視線が、美咲の肩に置かれた。その指先が、触れるか触れないかの距離で、美咲の肌を撫でた。瞬間、美咲の全身に電流が走った。

「美咲、君も、そんな風に思ってるんじゃないのか？」

涼介の問いかけに、美咲は反論できなかった。むしろ、その言葉が、彼女の心の奥底にある、誰にも見せない本音を代弁しているようだった。

「…わからない。でも、なんだか、寂しいんだ」

「寂しいのか。俺もだよ」

涼介は、美咲の顔にそっと手を伸ばした。その指先で、彼女の涙を拭う仕草をした。しかし、美咲は涙を流していなかった。ただ、熱を帯びた涼介の瞳を見つめていた。

「美咲、君は、本当はもっと、愛されたいんじゃないのか？」

その言葉に、美咲は、まるで魔法にかかったように、涼介の腕に身を預けた。罪悪感は、もはや遠い霞のようになり、ただ、この熱に身を任せたいという欲望だけが、彼女を支配していた。

二人は、涼介のホテルの部屋へと移動した。そこは、美咲が泊まっているホテルとは違い、プライベート感溢れる、上質な空間だった。窓の外には、夜景が広がっていた。

「綺麗だね」

美咲は、窓の外を見ながら、呟いた。

「俺の隣で、君がもっと綺麗に見えるよ」

涼介の低く囁く声が、美咲の耳元をくすぐった。彼女は、ゆっくりと涼介の方を向いた。そして、二人の唇が、重なった。

それは、まるで長年溜まっていた水が、堰を切ったように溢れ出したかのようだった。美咲は、これまで経験したことのないほどの高揚感に包まれていた。涼介の熱い吐息、彼の手が触れるたびに、彼女の身体は震えた。健一とのセックスレスの日々が、まるで嘘のように、美咲の身体は、求めていた愛情と快感を、貪欲に吸収していった。

「もっと、君のすべてを知りたい」

涼介の言葉に、美咲は、これまで誰にも見せたことのない、自分自身の奥底にある欲望を、解放した。彼女は、ただの「妻」ではなかった。秘められた情熱と、燃え盛るような欲望を抱える、一人の女だった。

その夜、二人は、まるで禁断の果実を味わうかのように、激しく、そして貪欲に愛を交わした。美咲は、夫への罪悪感よりも、この刹那的な快感と、自分自身が解放されていく感覚に酔いしれていた。彼女の身体は、まるで乾ききった大地が雨を吸い込むように、涼介の愛情と欲望を吸収し、満たされていった。

しかし、夜が明けるにつれて、罪悪感が、まるで忍び寄る影のように、美咲の心を蝕み始めた。窓の外に広がる、無情なまでの青い空。それは、彼女が犯した罪の深さを、突きつけているかのようだった。

「ごめんね、私…」

美咲は、眠っている涼介の顔を見ながら、そっと呟いた。彼女の心には、浮気という行為への罪悪感と、そして、この関係が永遠ではないという、悲しい予感が渦巻いていた。

「でも…」

彼女は、自身の身体に触れた。まだ、涼介の熱が残っている。その熱は、彼女に、もう一度、その禁断の扉を開けさせたいと囁いているようだった。

「これで、私は、どうなってしまうんだろう…」

美咲の心は、罪悪感と欲望の狭間で、激しく揺れ動いていた。彼女は、夫の待つ日常に戻らなければならない。しかし、一度知ってしまった、この情熱的な体験は、彼女から、もう二度と離れることはないだろう。

彼女は、まるで変態女の本性が、この旅で剥き出しになったかのように感じていた。本当の自分とは、一体何なのだろうか。夫への裏切り。それは、彼女の人生に、取り返しのつかない傷跡を残すのかもしれない。

しかし、その傷跡の陰に、美咲は、かつてないほどの鮮烈な「生」を感じていた。それは、夫とのセックスレスな日々では、決して味わうことのできなかった、罪悪感と背中合わせの、濃密な「生」だった。彼女は、一度越えてしまった浮気のレッドラインを、もう元には戻せない。そして、その先にある、想像を絶するほどエロティックで、危うい世界に、彼女は、足を踏み入れてしまったのだ。