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東京の雑踏に紛れ、栗原拓也（27）は虚無感を抱えていた。愛する恋人、美咲を失ってから半年。彼女の面影が街の隅々から彼を嘲笑うように感じられた。仕事は手につかず、アパートの部屋は彼女の匂いが消え去った後、空っぽの棺桶のように感じられた。

ある晩、行きつけのバーで、いつものようにウィスキーを煽っていると、隣に若い女性が座った。栞（21）は、栗原とは対照的に、明るくて飾り気のない容姿をしていた。だが、彼女の瞳の奥には、栗原と同じように深い悲しみが潜んでいるのが、彼にはわかった。

栞は、半年前に交通事故で父親を亡くしたという。彼女の話す言葉は、まるで美咲が生きている時のように軽やかで、時に暗く沈むこともあった。栗原は、彼女の話に聞き入り、初めて、自分以外の誰かの痛みを感じることができた。

「…私、今、すごく、虚しいんです」栞は、グラスを回し、少し震える声で言った。「お父さんがいなくなって、何もかもが、色褪せて見えるみたいで…」

栗原は、自分の胸に去来する感情と重なる栞の言葉に、言葉を失った。美咲も、そう言っていたような気がした。美咲も、全てが色褪せて見えると言っていたような…。

「…俺もだよ」と、栗原は絞り出すように言った。「恋人…失って…もう、何も楽しくない」

沈黙が二人を包む。しかし、それは不快な沈黙ではなく、同じ痛みを分かち合う、静かな共感だった。その夜、二人は語り合った。それぞれの喪失、そして、これからどう生きていくのかを。その中で、彼らは奇妙な合意に至った。

「…恋人を演じよう」栞が提案した。

栗原は、一瞬、言葉を失った。しかし、すぐにその提案に頷いた。美咲の喪失の痛みが彼を蝕み、現実逃避すらもできない状態に陥らせていたが、栞の提案は、彼にわずかな希望の光を差し込んだ。

「…演じる？」

「うん。お互い、恋人を失ったわけだし。一緒に、恋人を演じれば…少しは楽になれるかもしれないって」栞は、かすかな笑みを浮かべた。

こうして、彼らは「偽りの恋人」として生活を始めることになった。デートをしたり、映画を見たり、レストランで食事をしたり。最初はぎこちなかったが、徐々に自然になっていった。栗原は、栞といる時間の中で、少しずつ、失われた日常を取り戻しているような感覚を覚えた。栞もまた、栗原と過ごすことで、父親の死の悲しみを紛らわせる事ができた。

しかし、それはあくまで「演技」だった。栗原は栞のことを愛していたのか、愛していなかったのか、自分自身でも分からなくなっていた。栞もまた、栗原への感情は複雑だった。本物の恋ではないと理解しながらも、彼の温かさ、優しさに惹かれていく自分がいた。

ある夜、二人で映画を見た後、栗原のアパートで、彼らは初めてキスをした。それは、脚本のない、自然な流れだった。そのキスは、演技を超えた、何かを彼らに感じさせた。

「…これって、演技じゃないよね？」栞は、栗原の腕の中に抱かれながら、涙声で尋ねた。

栗原は、何も答えられなかった。彼の心は、複雑に絡み合った糸の塊のようだった。美咲への愛、栞への感情、そして、自分自身の虚しさ。それら全てが、彼を混乱させた。

彼らの関係は、ますます複雑になっていった。彼らは、互いの心の穴を埋め合うように、近づき、そして、深く関わっていく。しかし、それは、いつまでも続くわけではないと、二人は薄々感じていた。いつの日か、この偽りの恋は終わりを迎える。そして、再び、深い悲しみに突き落とされる日が来ることを。

ある日、栞は栗原に告げた。「もう、続けられない」と。

栞は、栗原との時間を大切に思っていた。しかし、彼の心の中に、常に美咲の影を感じていた。それは、彼女がどんなに努力しても、埋めることのできない深い溝だった。そして、自分の心が、栗原に依存していることに気づいた時、恐怖を感じた。

栗原は、栞の言葉に沈黙した。彼は、栞の気持ちは理解できた。しかし、栞を失うことは、彼にとって再び大きな喪失を意味した。

「…ありがとう」栗原は、静かに言った。「本当に…ありがとう」

二人は、静かに別れた。そして、再び一人になった彼らは、それぞれの心の傷と向き合うことになった。しかし、彼らは決して、あの「偽りの恋」を無駄なものとは思わなかった。それは、互いの傷を癒す、大切な時間だった。それは、彼らが再び、生きていくための力になったのだ。そして、いつか、本当の幸せを見つけられることを、彼らは願っていた。