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## 黄金の夜に咲く花

星影を溶かし込んだような漆黒の夜。都心のネオンサインが、ビルの谷間を縫うようにきらめいていた。そんな摩天楼の一角、ひっそりと佇む一室に、月影は彼女の静かな気配を放っていた。電話一本で現れる、依頼主の欲望を満たすための、夜の花。それが彼女、月影だった。

今夜の依頼主は、海運王として知られる白石氏。財を成した男は、孤独と退屈を抱え、夜の帳に紛れては、月影のような匿名の美を求めた。月影は、そんな彼らの虚無を埋める、儚くも鮮烈な一瞬を提供していた。

電話が鳴ったのは、ちょうど真夜中を告げる時計の鐘が鳴り響いた頃だった。受話器を取ると、甘く、しかしどこか物憂げな男の声が響いた。「月影さん、今宵もあなたにお会いしたい。いつもの場所で。」

「承知いたしました。ただ今、向かいます。」

月影は、感情を一切滲ませない、涼やかな声で応えた。彼女にとって、これは仕事。感情の介入は、プロフェッショナルとしてのTHRESHOLDを越える行為だった。

彼女はクローゼットを開け、今宵の衣装を選んだ。ワインレッドのシルク。肌に吸い付くような質感は、月光を浴びて鈍く輝き、彼女のすらりとした肢体を優雅に包み込む。胸元には、微かに艶めく黒いレース。それは、秘められた情熱を暗示しているようでもあった。鏡に映った自分は、もはや人間というより、精巧に作られた人形のようだった。感情を排し、ただ「完璧」であることだけを追求した、夜の娼婦。

タクシーに乗り込み、窓の外を流れる夜景をぼんやりと眺める。街の光は、彼女にとってはただの背景。彼女の心は、いつも凪いだ湖面のように静かだった。依頼主の顔も、声も、彼女の記憶にはほとんど残らない。残るのは、彼らが抱える、言葉にならない渇望だけ。そして、その渇望を、一晩だけ満たしてあげるという、彼女の役割。

白石氏のペントハウスは、夜景を一望できる、広々とした空間だった。重厚な革張りのソファ、美術品が飾られた壁。すべてが、富の象徴だった。白石氏は、月影が部屋に入ると、ワイングラスを片手に彼女に近づいた。五十代後半だろうか。皺の刻まれた顔に、どこか孤独の色が滲んでいた。

「月影さん、待っていたよ。」

彼の声は、先ほどの電話の声とは少し異なり、疲労と切なさを孕んでいた。月影は、ただ静かに微笑み返す。

「白石様。今宵も、お迎えにあがりました。」

彼女の言葉は、丁寧で、それでいてどこか他人行儀だった。それは、彼女が演じる「月影」というキャラクターの、丁寧な脚本の一部だった。

白石氏は、月影の肩にそっと手を置いた。その手は、少し震えているように見えた。「君に会うと、いつも心が安らぐんだ。」

月影は、彼の意図を察し、彼の胸にそっと寄り添った。シルクの衣装が、彼の指先を滑る。彼は、月影の髪を優しく撫でた。

「君は、まるで天使のようだ。」

天使。その言葉は、月影にとって、最も遠い場所にある言葉だった。彼女は、天使のように純粋でも、慈悲深くもない。ただ、夜の闇に紛れて、一時の安らぎを売る、人間だった。

「私は、ただの女です。」

彼女は、静かに呟いた。その声には、微かな諦めが混じっていた。

白石氏は、彼女の言葉に耳を貸すでもなく、彼女をソファに座らせ、ワインを注いだ。グラスが触れ合う音だけが、静寂を破る。

「君は、どんな人生を歩んできたんだい？ こんなに美しいのに、どこか儚げで…」

彼は、彼女の過去に触れようとした。しかし、月影は、いつも決まった答えを用意していた。

「秘密です。そして、過去など、もうどうでもいいのです。」

彼女は、そう言って、彼の目をまっすぐに見つめた。その瞳の奥には、何も映っていないように見えた。

食事は、静かに進んだ。白石氏は、月影の顔をじっと見つめながら、時折、遠い目をした。彼の話は、過去の栄光、失ったもの、そして、満たされない欲望についてだった。月影は、ただ黙って彼の話を聞いた。相槌を打つでもなく、共感を示すでもなく。ただ、彼の言葉の波に、静かに漂っていた。

やがて、食事は終わり、夜は一層深まった。白石氏は、月影の手を取り、寝室へと誘った。部屋の明かりは、落とされていた。窓の外のネオンサインが、柔らかな光となって部屋を照らし出す。

月影は、白石氏の腕の中で、自分自身を失っていく。彼女の体は、彼の熱に呼応して、微かに熱を帯びていく。しかし、彼女の心は、どこか遠く、冷静な場所にとどまっていた。彼女は、ここで何をしているのか。依頼主の欲望を満たす。それは、彼女の存在意義だった。しかし、その行為の先に、何があるのだろうか。

白石氏の喘ぎ声が、部屋に響く。月影は、その音に耳を傾けながら、自分の鼓動を感じていた。それは、まるで、遠い岸辺から聞こえてくる波の音のようだった。

行為が終わると、白石氏は、月影を抱きしめたまま、しばらくの間、動かなかった。その腕の力は、どこか孤独を求めているようだった。

「ありがとう、月影。」

彼の声は、かすかに震えていた。「君のおかげで、少しだけ、心が満たされたよ。」

月影は、彼の胸に顔を埋めた。彼の体温が、彼女の肌を伝わる。

「それは、何よりです。」

彼女は、そう答えた。その言葉は、彼女が演じる「月影」という役割を、忠実に果たした、彼女自身の評価だった。

朝焼けが、窓の外から差し込み始めた頃、月影は、静かに部屋を出た。白石氏は、まだ眠っていた。彼女は、彼に別れを告げることなく、その場を去った。それが、彼女の流儀だった。

タクシーの窓から、朝の街並みを見つめる。夜の顔とは、また違った、忙しない空気。月影は、次の依頼を待つ。電話一本で、彼女はまた、夜の闇に身を投じるだろう。

彼女は、夜に咲く花。依頼主の欲望という土壌に根を張り、一晩だけ、その姿を晒す。そして、朝が来れば、静かに散っていく。その儚さが、彼女の魅力であり、彼女の悲劇だった。

彼女は、自分自身を、どのような色で彩ろうとしているのだろうか。黄金の夜に咲く花は、その花弁を、一体何のために開いているのだろうか。彼女自身にも、その答えは、まだ見つからなかった。ただ、依頼主の期待に応えるために、彼女は、今日もまた、夜の帳に身を投じる。その一瞬の輝きのために。