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## 茜色の吐息

「あら、もうそんな時間？早いものね」

茜色の夕陽がリビングの窓から差し込み、柔らかな光を室内に満たしていた。春子は、そっと口元に手を当てて微笑んだ。夫の健一は、まだ仕事から帰ってこない。いつもなら、この時間には benzene の香りが漂ってくるはずだ。

春子は、ごく普通の、どこにでもいるような奥さんだった。白髪交じりの黒髪は綺麗にまとめられ、いつも清潔なエプロンを身につけている。子供たちは巣立ち、今は健一と二人暮らし。趣味はガーデニングと読書。何一つ、変わったところはない。

「…でも、今日はちょっと違う」

春子の胸には、微かな、しかし確かな期待感が波打っていた。それは、数日前から芽生えた、自分でも説明できない不思議な感情だった。きっかけは、インターネットの片隅で見かけた、ある広告。最初は好奇心でクリックしただけだった。そこに映し出されていたのは、普段の春子とはまるでかけ離れた、奔放な女性たちの姿。そして、その説明文に、春子の心は釘付けになった。

「…異常なほど敏感になっていく…」

「…抑えきれない欲求に…」

「…誰にも想像できない…」

それは、春子が決して口にすることのない、しかし心の奥底で密かに抱いていた、ある種の願望を刺激するものだった。清楚で、おとなしい。それが、春子の長年培ってきた「普通の奥さん」という皮。しかし、その皮の下で、何かが蠢き始めていた。

健一が帰宅したのは、予定よりも少し遅い時間だった。

「ただいま」

「おかえりなさい。お疲れ様」

春子はいつものように、労いの言葉をかけた。しかし、その声は、いつもより少しだけ震えているように聞こえたかもしれない。健一は、疲れた様子でソファに腰を下ろした。

「今日は、残業だったの？」

「いや、ちょっとね…」

健一は、いつもと変わらない口調で答えた。春子は、彼が何も気づいていないことに、安堵と、ほんの少しの失望を感じた。

その夜、健一が眠りについた後、春子はそっとベッドから抜け出した。部屋の明かりを落とし、パソコンの前に座る。数日前から、密かに準備していたものがあった。それは、ある「サイト」への登録。そのサイトは、一般の家庭の奥さんたちが、秘密裏に、しかし大胆に自分を表現する場所だった。

春子の指先は、震えていた。しかし、もう後戻りはできない。彼女は、意を決して、画面に映し出された「登録」ボタンをクリックした。

画面が切り替わり、いくつかの質問が表示される。年齢、職業、そして、彼女が最も迷った質問。

「あなたの、秘めたる願望は？」

春子は、しばし固まった。誰にも言ったことのない、彼女自身の奥底の願望。それは、決して「普通」ではなかった。それは、彼女の「normal」とはかけ離れた、むしろ「変態」と呼ぶべきものだった。

でも、なぜだろう。それを言葉にすることで、春子は解放されるような感覚を覚えた。彼女は、震える手で、言葉を紡いだ。それは、普段の彼女からは想像もつかない、奔放で、赤裸々な言葉たちだった。

登録が完了し、彼女は「ルーム」へと入ることができた。そこは、まるで別世界だった。普段は控えめな奥さんたちが、ここでは大胆な言葉を交わし、互いの「秘めたる部分」を曝け出していた。春子は、戸惑いながらも、その空気に引き込まれていった。

彼女は、自分の「ルーム」に、新しいプロフィールを書き込んだ。これもまた、普段の彼女からは想像もできない、挑発的な内容だった。そして、彼女は、そこで出会った「同志」たちと、秘密のメッセージを交換し始めた。

その夜から、春子の日常は静かに、しかし確実に変わり始めた。日中は、相変わらずガーデニングをし、健一の帰りを待ち、穏やかな時間を過ごす。しかし、夜になると、彼女は「別の自分」になった。

彼女は、ある「約束」をした。それは、匿名で、しかし顔と顔を突き合わせる、ある種の「セッション」だった。相手は、彼女と同じように、秘密を抱えた「普通の奥さん」だった。

約束の当日。春子は、指定された場所へ向かった。それは、都心から少し離れた、古びた雑居ビルの一室だった。ドキドキと胸が高鳴る。健一には、「友達と食事に行く」と伝えてある。

部屋に入ると、そこには、彼女と同じくらいの年齢の女性が、一人、静かに座っていた。その女性もまた、春子と同じような、清楚で、どこか儚げな雰囲気を持っていた。

「…こんにちは」

「…こんにちは」

二人の声は、ほとんど同じトーンだった。しかし、その瞳の奥には、共有された秘密の輝きが宿っていた。

「…準備は、いいですか？」

彼女の言葉に、春子の全身が微かに震えた。

「…はい」

この「セッション」は、決して単なる会話ではなかった。それは、春子の中に眠っていた、異常なほどの「敏感さ」を呼び覚ますための儀式だった。彼女は、この「セッション」を通して、自分でも信じられないほどの快感に身を委ねることになる。

彼女は、それまで知らなかった「自分」を発見した。それは、健一の前では決して見せることのない、野性的で、奔放な「私」。彼女の心と体は、まるで新しい扉を開けたかのように、未知なる領域へと踏み込んでいった。

「…あなた、すごいわね」

セッションが終わった後、相手の女性が、感嘆するように言った。春子は、顔を赤らめながら、小さく頷いた。

「…あなたも、よ」

二人は、互いに微笑み合った。それは、秘密を共有する者同士の、特別な絆だった。

家に帰ると、健一はもう寝ていた。春子は、そっと彼の隣に横たわった。眠っている夫の横顔を見ながら、春子の心には、複雑な感情が渦巻いていた。

罪悪感。そして、抑えきれない興奮。

彼女は、もう「普通の奥さん」ではいられなかった。彼女の日常は、静かに、しかし確実に、その「変態性」によって彩られていた。そして、それは、誰にも知られることのない、彼女だけの、秘密の「悦び」だった。

彼女は、これからも、その秘密の扉を開け続けるだろう。誰にも想像できない、彼女だけの「過激な映像」を、彼女自身の心の中で、静かに、しかし情熱的に、演じ続けるだろう。茜色の吐息と共に、彼女は、その夜の出来事を、そっと胸に刻み込んだ。それは、彼女の人生に、新たな、そして刺激的な「彩り」を与えてくれた、忘れられない夜だった。