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## 隣の芝生は蜜の味

マンションの廊下は、夕食の匂いがほんのりと漂っていた。それぞれの家庭の日常が、壁一枚隔てたすぐそこで息づいている。田中は、そんな平凡な光景を、どこか他人事のように眺めていた。妻の香織とは、倦怠期というほどではないが、互いの存在が空気のようになっているのは否めない。

田中が隣に引っ越してきた夫婦、ミナコさんとアヤノさんに挨拶したのは、もう半年前のことだ。ミナコさんは明るく社交的で、田中にも気さくに話しかけてきた。アヤノさんは少し人見知りのようだったが、穏やかな笑顔が印象的だった。

ある日、田中はゴミ出しの際にミナコさんと顔を合わせた。彼女はいつも通りの笑顔で、「こんにちは、田中さん。今日もお仕事ですか？」と話しかけてきた。

「ええ、まあ」と田中は答えた。

「うちの旦那も今日遅いみたいで、一人で寂しいんですよ。よかったら、ちょっとお茶でもどうですか？」

田中は一瞬躊躇したが、彼女の明るさに惹かれ、「そうですね、少しだけなら」と答えた。

ミナコさんの部屋は、彼女の性格を反映してか、明るく華やかだった。観葉植物が生き生きと茂り、壁には可愛らしい絵が飾られている。彼女は手際よく紅茶を淹れ、クッキーを添えて出してくれた。

「あの、田中さん。相談に乗ってほしいことがあるんです」

ミナコさんは少し真剣な表情で言った。田中は身構えた。

「実は、最近、旦那との関係が上手くいってなくて…」

ミナコさんは、夫の仕事が忙しく、すれ違いの日々が続いていること、愛情表現が減ってきていることなどを打ち明けた。田中は、彼女の言葉に耳を傾けながら、自分の家庭と重ね合わせていた。

その夜から、田中とミナコさんの関係は少しずつ変化していった。

数日後、今度はアヤノさんが田中を呼び止めた。彼女はいつもの穏やかな笑顔を浮かべていたが、どこか不安げな様子だった。

「あの、田中さん。少しお時間ありますか？」

田中は、ミナコさんの件があったので、警戒しながらも「はい、大丈夫です」と答えた。

アヤノさんは、小さな声で「実は…ミナコが、少しおかしいんです」と切り出した。

彼女の話によると、ミナコさんは最近、夜遅くまで外出することが多く、帰ってきてもどこか上の空で、以前のように話をしてくれなくなったという。アヤノさんは、ミナコさんが何か隠し事をしているのではないかと心配していた。

田中は、ミナコさんの様子を思い出し、アヤノさんの不安を理解した。彼は、ミナコさんと二人で会ったことをアヤノさんに打ち明け、彼女を安心させようとした。

「ミナコさんは、旦那さんとの関係で悩んでいるみたいでした。もしかしたら、それが原因で、少し不安定になっているのかもしれません」

アヤノさんは、田中の言葉を聞いて、少し安心したようだった。しかし、彼女の表情は依然として曇っていた。

「でも…ミナコは、私にも何も言ってくれないんです。まるで、私を避けているみたいで…」

田中は、アヤノさんの寂しげな表情を見て、何か自分にできることはないかと考えた。彼は、アヤノさんを励ますように、「大丈夫ですよ。きっと、ミナコさんも、アヤノさんのことを大切に思っているはずです」と言った。

その日から、田中はミナコさんとアヤノさん、それぞれと微妙な距離感を保ちながら、彼らの関係を見守るようになった。ミナコさんは、以前よりも積極的に田中を誘うようになり、アヤノさんは、時折、田中に相談を持ちかけてくるようになった。

ある夜、田中はミナコさんに誘われ、再び彼女の部屋を訪れた。ミナコさんは、いつものように笑顔で田中を迎え入れたが、その目はどこか寂しげだった。

「田中さん。私、どうしたらいいんでしょうか…」

ミナコさんは、ソファに座ると、深くため息をついた。田中は、彼女の隣に座り、肩に手を添えた。

「ミナコさん。まずは、旦那さんとちゃんと話し合ってみるべきだと思います。お互いの気持ちを伝え合えば、きっと分かり合えるはずです」

ミナコさんは、田中の言葉を聞いて、涙を浮かべた。

「でも…もう遅いかもしれないんです。私、もしかしたら、もう旦那さんのことを愛していないのかもしれません…」

田中は、ミナコさんの言葉に衝撃を受けた。彼は、彼女の気持ちを理解しようと努めたが、同時に、自分の行動が、彼女の関係をさらに悪化させているのではないかという罪悪感に苛まれた。

その時、突然、部屋のドアが開いた。そこに立っていたのは、アヤノさんだった。彼女は、信じられないという表情で、田中とミナコさんを見つめていた。

「ミナコ…あなた、一体何を…」

アヤノさんの声は震えていた。ミナコさんは、目を伏せ、何も言わなかった。

田中は、事態の深刻さを理解した。彼は、アヤノさんに謝罪し、すべてを説明しようとしたが、アヤノさんは、それを遮るように、「もういいわ」と言い、部屋から出て行った。

その後、田中は、ミナコさんとアヤノさんの関係がどうなったのかを知らない。彼は、彼女たちのマンションから引っ越し、新しい生活を始めた。

しかし、時折、彼は、ミナコさんとアヤノさんのことを思い出す。あの時、自分は一体何をしていたのだろうか。なぜ、彼女たちの悩みに、深く関わってしまったのだろうか。

田中は、隣の芝生は青く見える、という言葉を思い出す。しかし、その青さは、幻想に過ぎないのかもしれない。隣の芝生に足を踏み入れた時、そこには、予想もしなかった苦しみや悲しみがあるかもしれないのだ。

田中は、自分の過去の過ちを反省しながら、これからの人生を、より慎重に、より誠実に生きていこうと心に誓った。そして、二度と、他人の家庭の事情に、軽々しく足を踏み入れることのないように、心に深く刻んだ。