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## 雑踏の果て、ネオンの誘惑

東京都心、巨大なバスターミナル。夜の帳が下りようとする空の下、無数のヘッドライトが複雑な光の網を描き出していた。地方から到着したであろう、キャリーバッグを引いた女性たちの群れが、雑踏の中を縫うように進んでいく。その一人、山田静香（32歳）もまた、その群れの中にいた。

群馬県から長距離バスでやってきた静香は、都会の喧騒に少し圧倒されていた。結婚して７年、専業主婦として平凡ながらも穏やかな日々を送っていたが、最近、胸の内に抑えきれない渇望が芽生えていた。夫とは仲睦まじくやっている。しかし、それは「仲睦まじい」という枠に収まる、予測可能で、どこか味気ない関係性だった。静香自身も、その「穏やかさ」に退屈し始めていたのかもしれない。

「…さて、今夜はどうしようかな」

静香は、スマートフォンの地図アプリを開いた。予約なしで来たのは、この「成り行き」こそが、今回の旅の醍醐味だと思っていたからだ。彼女は、ある種の「冒険」を求めて、この東京へとやってきた。SNSで流れてくる、刺激的な都会の夜の噂。特に、バスターミナル周辺は、地方から来た女性にとって、宿泊先を確保していない場合、カラオケやネットカフェといった、夜を明かすための場所を求めてさまようことになる。そんな彼女たちに、甘い言葉を囁き、誘惑する男たちがいるという話を聞いていた。

「隠れヤリマン妻を狙い撃つハンティング…」

そんな言葉が、SNSの片隅に踊っていた。最初は冗談だと思っていたが、徐々にその言葉が静香の心をざわつかせた。自分も、夫以外に「別の自分」を求めているのだろうか。そんな罪悪感と、かすかな期待が入り混じった感情が、静香の背中を押した。

バスターミナルを出て、周囲のネオンサインが眩いばかりに輝く繁華街へと足を踏み入れる。どこからともなく流れてくる音楽、人々の賑わいが、静香を非日常へと誘っていた。彼女は、その「非日常」の空気を吸い込みながら、まるで迷子の子供のように、しかしどこか決意を秘めた表情で、街を彷徨った。

「お姉さん、一人？」

ふと、背後から声がかかった。振り向くと、スーツ姿の男性が、親しげな笑みを浮かべて立っていた。歳は３０代前半くらいだろうか。清潔感のある身だしなみと、穏やかな目元が、静香に警戒心を抱かせなかった。

「え、ええ、そうですけれど…」

「もし、宿泊先とか決まってないなら、うちで良ければ泊まっていく？　僕、一人暮らしなんだ。全然邪魔にならないよ」

男性は、まるで親切な案内人のように、しかしどこか誘うような口調で続けた。静香の心臓が、トクンと跳ねた。これが、噂の「ハンティング」なのだろうか。

「でも、私…」

「大丈夫だよ。変なことなんてしないから。ただ、ちょっと話し相手が欲しかっただけ。君みたいな綺麗な人が、一人でこんな街を歩いてたら、放っておけないんだ」

その言葉に、静香はふっと微笑んだ。彼女の心に、微かな火が灯る。夫の顔が、一瞬頭をよぎったが、すぐにその影は消えた。

「…そうですね。どこか、落ち着ける場所で、お話ししたい気分ではあります」

男性は、満面の笑みで静香の返事を受け入れた。彼の名前は、高橋健一。都内でIT関連の会社を経営しているという。彼のアパートは、バスターミナルから歩いて１５分ほどの、静かな住宅街にあった。

部屋は、シンプルながらもセンスの良い家具が置かれ、清潔感に溢れていた。健一は、静香に温かいハーブティーを勧めてくれた。二人は、ソファに並んで座り、他愛のない話から、互いの過去、そして今の生活について語り始めた。

健一は、仕事で成功を収めているようだったが、その口調には、どこか虚無感のようなものが漂っていた。彼もまた、孤独を抱えているのかもしれない。静香は、健一の話に耳を傾けながら、自分の心の中にも、同じような空虚な空間があることに気づかされた。

「…なんだか、久しぶりに、こんなに色んなことを話した気がします」

静香がそう言うと、健一は優しく微笑んだ。

「僕もだよ。君と話していると、心が安らぐんだ。まるで、ずっと探していたものが見つかったような…」

その言葉に、静香の体温がじんわりと上がった。彼女の探していた「それ」は、一体何だったのだろうか。夫との穏やかな日常では満たされない、もっと激しい感情、もっと深い繋がり、あるいは、単なる刺激だったのだろうか。

健一は、静香の手にそっと触れた。その指先から伝わる熱が、静香の身体に染み渡っていく。静香は、抵抗しなかった。いや、抵抗する気は、さらさらなかった。

「…静香さん、綺麗だね」

健一の囁きが、静香の耳元をくすぐる。彼女の顔が、赤く染まる。

「健一さんも、素敵です」

その夜、二人の間には、言葉にならない感情が流れた。それは、単なる肉体的な関係というよりも、互いの孤独を埋め合い、一時的な安らぎを分かち合うような、そんな不思議な時間だった。静香は、自分の中に潜んでいた、もう一人の自分に、初めて出会ったような気がした。

夜が明け、静香は健一のアパートを出た。まだ眠っている健一の横顔を見ながら、彼女は複雑な感情を抱えていた。罪悪感、背徳感、そして、かすかな満足感。

「…これで、良いのかな」

彼女は、自分に問いかけた。しかし、その問いへの答えは、まだ見つからなかった。

バスターミナルに戻ると、もうすでに多くの人々が行き交っていた。静香は、再びキャリーバッグを引いて、雑踏の中に紛れ込んだ。彼女の心の中には、昨夜の出来事が、鮮明に残っていた。

「…次に来るときは、どうしよう」

静香は、ふと、もう一度この場所に来たい、という衝動に駆られた。あの「ハンティング」という言葉が、彼女の頭の中で、新たな意味を持ち始めていた。それは、単なる遊びではなく、自分自身の未知なる一面を見つけ出すための、秘密の扉だったのかもしれない。

雑踏の果て、ネオンの誘惑。静香は、その誘惑に、抗いながらも、どこか惹きつけられている自分を感じていた。彼女の、都会での、秘密の夜は、まだ始まったばかりだった。