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東京のオフィス街。高層ビルの窓から見える景色は、煌びやかで、同時に千波の心には届かない遠さを感じさせた。25歳、森谷千波は、大手商社の一般事務として働くごく普通のOLだった。毎朝同じ電車に乗り、同じオフィスで同じ仕事をする。まるでレールの上を走る小さな車輪、そんな感覚に、最近、強い倦怠感を覚えるようになっていた。

千波の不満は、大きく分けて二つあった。一つは仕事の内容のマンネリ化。事務作業は正確さを求められる反面、創造性や成長を実感できる機会は少ない。もう一つは、恋愛の停滞。周りの友人たちは結婚や恋の話で持ちきりだが、千波自身には、真剣に付き合える相手がいない。何度か合コンにも参加したものの、どれも良い出会いに恵まれなかった。

「もっと何か、刺激が欲しい…」

そんな思いが、千波の胸に渦巻いていたある日、部署に新しい課長が赴任してきた。桑村卓也、40歳。スポーツマン体型で、甘いマスクと端正な顔立ちを持つ彼は、たちまち課の女性社員たちの憧れの的となった。

桑村は、仕事への熱意と、部下への気配りの両方を兼ね備えた、理想の上司だった。的確な指示と、時に見せるユーモアのある語り口は、周囲の空気を明るくし、仕事のモチベーションを高めた。千波も、桑村の仕事ぶりには感銘を受けていた。彼の緻密な戦略、迅速な判断、そして何よりも、部下を信頼し、尊重する姿勢に、新鮮な魅力を感じた。

しかし、桑村にはすでに奥さんと子供がいた。その事実を知っていても、千波は桑村に惹かれていくのを止められなかった。彼の笑顔、仕事に真剣に取り組む姿、さりげなく見せる優しさ…全てが、千波の心を揺さぶった。

ある日、残業で遅くなった千波は、桑村が一人で資料整理をしているのを見つけた。千波は、手伝いを申し出た。二人きりの空間で、仕事の話からプライベートの話へと話題は移っていった。桑村は、家族のこと、仕事のこと、そして過去の挫折経験など、様々なことを打ち明けてくれた。その言葉の一つ一つに、千波は真実味を感じ、彼の内に秘めたる深い人間性を垣間見た気がした。

「外してくれたらって思ってたよ…もしかしたら、とか…」

千波の心の奥底にあった、そんな危うい願望が、この時、初めて言葉として形になった。それは、桑村と何か特別な関係になることへの淡い期待であり、同時に、今の日常から抜け出したいという切なる願いでもあった。

しかし、桑村は千波の気持ちを察したのか、それとも単に社交辞令だったのか、曖昧な言葉で答えた。その言葉に、千波は希望と失望を同時に抱いた。

その後も、千波は桑村との距離を縮めようと、様々な機会を模索した。しかし、桑村は常に、上司と部下の線を超えることなく、冷静な距離感を保っていた。千波は、その優しさの裏に、深い責任感と葛藤を見出した。

ある晩、千波は桑村に勇気を出して、自分の気持ちを打ち明けた。しかし、桑村は、家族への愛と責任を強く主張し、千波の想いに応えることはできなかった。

「千波さん、君は素晴らしい女性だ。でも、僕は…」

桑村の言葉は、千波の胸に深く突き刺さった。失望と同時に、千波は、自分の浅はかさを悟った。桑村の家族を壊すような行為は、決して許されることではないと。

桑村との出来事を経て、千波は自分の生き方を見つめ直すようになった。仕事にやりがいを見出す努力をし、新たな趣味を見つけ、友人との交流も深めた。桑村への未練は残っていたものの、それは、千波の成長の糧となった。

そして、数年後。千波は、自分自身の力で、新しい一歩を踏み出そうとしていた。桑村との出来事は、辛い経験ではあったが、千波にとって、人生の大きな転換期となったのだ。それは、決して忘れられない、大切な記憶として、千波の心の奥底に刻まれたままだった。