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「藤森さん、今日も一日お疲れ様でした」

定時を少し過ぎた頃、オフィスに響く声に、私は顔を上げた。藤森咲子さん。部署は違うけれど、いつも柔らかな笑顔で、私にも気さくに話しかけてくれる、憧れの女性だ。

「あら、川島さん、まだ残ってたの？お疲れ様」

咲子さんの声は、どこか透明感があって、聞いているだけで心が安らぐ。色白でハリのある肌、そして何よりも目を引くのは、その豊満な胸。上品なブラウス越しにも、そのボリュームは隠しきれず、時折、胸元がはだけるたびに、ドキドキしてしまう。ウェーブのかかったショートカットは、彼女の切れ長の瞳と、すらりとした鼻筋に驚くほど似合っていて、色っぽさの中に不思議な奥ゆかしさを感じさせる。

「はい、ちょっと残業になりまして。藤森さんは、もうお帰りですか？」

「ええ、もうすぐ。主人が迎えに来てくれるの」

そう言って、咲子さんはバッグを手に取った。その仕草一つ一つが洗練されていて、絵になる。夫、明さん。彼は大学の同期で、何度か会社のイベントで顔を合わせたことがある。穏やかで、優しそうな人。咲子さんにとっては、きっと最高のパートナーなのだろう。

…と、思っていた。

先日、偶然、咲子さんと街で会った。その日は休日で、私は一人で買い物をしていた。すると、カフェのテラス席に座る咲子さんの姿が見えた。隣には、見知らぬ男性が。そして、二人の間には、夫婦とは明らかに違う、親密な空気が流れていた。

「……え？」

思わず声が漏れそうになったのを、必死で抑える。見間違いだろうか？いや、あの、少し悲しげな、でもどこか熱を帯びた瞳は、紛れもない咲子さんのものだった。

それからというもの、私は咲子さんのことが気になって仕方なくなった。休憩時間になると、自然と彼女のデスクの方に目が行ってしまう。彼女が笑顔で同僚と話している姿を見ていると、あの日の光景は単なる気の迷いだったのかもしれない、と思いたくなる。でも、ふとした瞬間に、彼女の笑顔の奥に、あの日の悲しい表情が垣間見えるような気がするのだ。

そんなある日、咲子さんが私のデスクにやってきた。

「川島さん、ちょっといいかしら？」

「はい、なんでしょう？」

「あのね…実は、お願いしたいことがあるの」

咲子さんは、少し間を置いてから、神妙な面持ちで話し始めた。

「来週、一泊二日で、旅行に行くことにしたの。主人が、突然休みが取れたらしくて。それでね…」

彼女は、私の手元にある企画書に目を落とし、続けた。

「この仕事、川島さんが担当してるでしょう？もし、この仕事の撮影に、私をモデルとして使ってもらえないかしら？もちろん、謝礼はちゃんとお支払いするわ。…ちょっと、貯金がしたくて」

貯金？咲子さんが？あの、優雅で、何不自由なく暮らしているように見える咲子さんが？

「え、あの…藤森さんが、モデルを？」

私の動揺は隠しきれていなかっただろう。咲子さんは、少し微笑んで、でもその瞳の奥には、やっぱりあの日の影が揺れているように見えた。

「そう。…今後のためなの。私、最近、将来のことで少し不安があって…」

彼女が、なぜそんなにも貯金に必死なのか、私には全く想像がつかなかった。ただ、彼女の真剣な眼差しと、その言葉の裏に隠された何かを感じ取った時、私は、彼女の頼みを断ることができなかった。

「…わかりました。ぜひ、お願いします」

「ありがとう、川島さん。本当に助かるわ」

咲子さんの顔に、一瞬、安堵の色が広がった。でも、その表情はすぐにいつもの柔らかな笑顔に戻った。

旅行当日。私は、咲子さんと一緒に、都心から離れたリゾートホテルへ向かっていた。車の中、咲子さんは窓の外の景色を眺めている。その横顔は、いつものように美しく、しかし、どこか遠くを見つめているような、物憂げな表情をしていた。

「あの、藤森さん…その、貯金、ということですが…何か、特別な理由があるんですか？」

思い切って、私は尋ねてみた。咲子さんは、少し驚いたように私の方を向いた。そして、しばらく沈黙した後、静かに口を開いた。

「…川島さんなら、話してもいいかもしれないわ」

彼女は、ゆっくりと、しかし率直に語り始めた。

「夫の明さんは、とても良い人なの。優しくて、誠実で。でも…」

そこで、彼女は言葉を詰まらせた。

「でも、最近、病気で…余命宣告をされたの」

「えっ！？」

言葉を失った。咲子さんの隣に座る、あの穏やかな明さん、彼が…？

「まだ、友人にも、家族にも、話していないの。…私一人で、抱えている」

咲子さんの声は、震えていた。

「これから、色々、お金が必要になるかもしれない。…でも、私、働いていないでしょう？だから、せめて、少しでも貯めておこうと思って…」

彼女は、 tears を堪えるように、ぎゅっと唇を噛んだ。

「明さんが、いつまで、私のそばにいてくれるか分からない。…もし、一人になってしまったら…」

その言葉は、途切れた。でも、その続きは、私にも痛いほど分かった。

「…だから、この仕事、どうしても、必要だったの。…あなたに、こんなことを話すつもりはなかったんだけど…」

彼女は、照れくさそうに、でも、どこか吹っ切れたような笑顔を見せた。

「でも、川島さんなら、きっと、理解してくれると思って…」

彼女の笑顔の奥に隠されていた悲しみ。それは、病気の夫を支える、妻としての深い愛情と、そして、迫りくる別れへの恐怖だったのだ。

撮影は、順調に進んだ。咲子さんは、カメラの前で、プロ顔負けの演技を見せてくれた。普段の彼女の、優しく、そしてどこか儚げな雰囲気が、写真に不思議な深みを与えていた。時折、彼女の瞳に宿る悲しみが、写真に芸術的な陰影を落とす。

「藤森さん、素敵です。本当に」

撮影の合間、私は素直に彼女に伝えた。咲子さんは、少し驚いた後、照れたように微笑んだ。

「ありがとう。でも、これは…川島さんが、私のために、こんな機会を作ってくれたからよ」

彼女の言葉に、私は胸が熱くなるのを感じた。

旅行の終わりに、私たちはホテルのラウンジでお茶を飲んでいた。夕暮れ時、窓の外には、茜色の空が広がっている。

「…ありがとう、川島さん。今日のことは、一生忘れないわ」

咲子さんは、そう言って、私の手にそっと手を重ねた。その手は、少し冷たかった。

「…私、明さんと、結婚して、本当に幸せだったんです」

彼女は、遠い目をして、続けた。

「…だから、彼のために、できることは、何でもしたい。…それが、たとえ、彼がいなくなった後の、私のための準備だとしても」

彼女の言葉は、静かだったが、その中に秘められた覚悟が、ひしひしと伝わってきた。

「…でも、大丈夫。私、一人でも、やっていけるから」

そう言って、咲子さんは、私の方に顔を向け、いつもの柔らかな笑顔を見せた。その笑顔は、悲しみと、そして、力強さを秘めた、新しい笑顔だった。

「…さあ、そろそろ帰りましょうか」

咲子さんが立ち上がると、私もそれに続いた。

「…あの、藤森さん」

「え？」

「…もし、何か、私にできることがあれば、いつでも言ってください」

彼女は、私の言葉に、静かに微笑んだ。

「ありがとう、川島さん。…でも、大丈夫。私、明さんの分まで、しっかり生きるから」

彼女は、そう言って、背を向けた。その背中は、どこか凛としていて、私は、彼女から目を離すことができなかった。

咲子さんの悲しみは、まだ癒えることはないだろう。しかし、彼女は、その悲しみと向き合い、未来へと歩み始めている。彼女の奥ゆかしさの中に宿る強さ。それは、彼女が愛する人を支え、そして、自らの人生を懸命に生きようとする、美しい姿なのだと、私は確信した。

彼女の笑顔の中に、時折見せる悲しい表情。それは、もう、彼女を弱く見せるものではない。むしろ、彼女を、より一層、魅力的な女性にしているように思えた。

私は、咲子さんの後ろ姿を見送りながら、心の中で静かに呟いた。

「…頑張ってください、藤森さん」

彼女の未来に、幸多からんことを。そして、彼女が、いつか、本当の笑顔で、この世界を謳歌できる日が来ることを、心から願っていた。