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## 晩夏の迷い子

陽が傾きかけたリビングに、古びた柱時計の音が重く響く。カチ、コチ、カチ、コチ。時を刻む鈍い音は、まるで私の心臓の音を増幅させているかのようだった。

テーブルの上には、開かれた日記帳。ざらついた紙質に、震える文字で綴られた言葉が、私の視界を焼き付くように離れない。

「…余命、半年…」

義父、正太郎さんの日記だった。アルツハイマーの症状が出始めたのは、もう一年以上も前のこと。最初は物忘れ程度だったのが、次第に時間や場所の感覚が曖昧になり、ついには私のことを恋人と間違えるようになった。

「美咲…、美咲…」

あの優しい笑顔で、私の名前を呼ぶ。でも、それは私ではない。正太郎さんが、過去に愛した女性の名前なのだ。

私は、正太郎さんの息子、健太の妻。結婚して五年になる。正太郎さんのアルツハイマーが進行してからは、介護のために同居を始めた。

最初は戸惑った。正太郎さんの症状が進むにつれ、私への態度も変わっていった。抱きしめられたり、キスをされそうになったり。その度に、私は必死で抵抗した。

健太は仕事で忙しく、ほとんど家にいない。正太郎さんの介護は、ほとんど私一人で担ってきた。誰にも相談できず、ただ一人で、正太郎さんの記憶の迷宮に迷い込むような日々を送っていた。

日記を読んだのは、今日が初めてではない。正太郎さんの部屋を掃除していた時、偶然見つけてしまったのだ。最初は罪悪感があった。人の日記を覗き見るなんて。でも、一度読み始めると、止まらなくなった。

日記には、正太郎さんの苦悩が綴られていた。記憶が失われていく恐怖、愛する人たちを忘れてしまうかもしれない不安。そして、私への、歪んだ愛情。

「美咲…、君は変わらない。昔のまま、美しい…」

日記の中の正太郎さんは、私を美咲さんと重ねて見ていた。そして、その想いは日に日に強くなっていた。

日記を読んでいるうちに、私は複雑な感情に囚われていった。罪悪感、嫌悪感、そして、ほんの少しの同情。正太郎さんは、病気なのだ。コントロールできない衝動に駆られているだけなのだ。

その日、私はいつもより丁寧に正太郎さんの夕食を作った。柔らかく煮込んだ鶏肉、彩り豊かな野菜、そして、正太郎さんの好きな味噌汁。

「美味しい…」

正太郎さんは、嬉しそうに微笑んだ。その笑顔は、まるで幼い子供のようだった。

食後、私は正太郎さんの部屋で、日記を読み返していた。

「…美咲、君に触れたい。君の温もりを感じたい…」

その言葉を読んだ瞬間、私の体は熱くなった。心臓が激しく鼓動し、呼吸が浅くなる。

ふと、視線を感じて顔を上げた。正太郎さんが、私のすぐ後ろに立っていた。

「美咲…」

正太郎さんの声は、かすれて震えていた。

私は立ち上がり、後ずさりしようとした。しかし、正太郎さんは私の腕を掴み、強く抱き寄せた。

「美咲…、お願いだ…」

正太郎さんの手が、私の背中を這い、首筋に触れた。私は身を硬くし、抵抗しようとした。

でも、できなかった。

正太郎さんの手が、私の服の中に滑り込んできた。私は目を閉じ、震える唇を噛み締めた。

正太郎さんの息遣いが、すぐそばに聞こえる。アルツハイマーが進んでいるせいか、その息は荒く、どこか子供のようだった。

その時、私は正太郎さんの目に、涙が浮かんでいるのを見た。それは、まるで迷子になった子供のような、哀しい瞳だった。

私は、正太郎さんを突き飛ばすことができなかった。

私は、正太郎さんの腕の中で、ただ立ち尽くしていた。

正太郎さんのキスは、震えていた。記憶を失いかけている老人の、必死の願いのようなキスだった。

私は、目を閉じた。

その時、私の頭の中に、様々な感情が押し寄せてきた。罪悪感、嫌悪感、そして、ほんの少しの哀れみ。私は、正太郎さんの孤独と、自身の心の隙間を埋めようとしていることに気が付いた。

私は、正太郎さんの手を握った。

「正太郎さん…」

私の声は、震えていた。

「私は、美咲さんじゃない。私は、健太の妻の美咲です」

正太郎さんの動きが止まった。

彼は、ゆっくりと私から手を離した。そして、混乱した表情で私を見つめた。

「…美咲…？違うのか…？」

正太郎さんの瞳から、涙がこぼれ落ちた。

私は、正太郎さんの手を握り、優しく微笑んだ。

「大丈夫です。私が、ずっと側にいます」

私は、正太郎さんを抱きしめた。彼の体は、震えていた。

その夜、私は正太郎さんの隣で眠った。彼の手を握り、ただ、彼の鼓動を感じていた。

翌朝、健太が帰ってきた。

「ただいま」

健太の声は、疲れていた。

「おかえりなさい」

私は、健太を抱きしめた。

「ありがとう。色々と大変だったろ？」

健太は、私の髪を撫でた。

「大丈夫。私がいるから」

私は、健太の腕の中で、安堵した。

その日、私は健太に、正太郎さんの日記のことを話した。そして、昨夜あったことも、全て打ち明けた。

健太は、しばらく黙って聞いていた。そして、静かに言った。

「辛かったな。よく頑張った」

健太は、私を強く抱きしめた。

「父さんのことは、俺も一緒に支える。もう一人で抱え込まないでくれ」

その言葉を聞いて、私は涙が止まらなかった。

正太郎さんの余命は、あとわずか。私は、正太郎さんが残された時間を、少しでも穏やかに過ごせるように、精一杯尽くそうと決めた。

正太郎さんの記憶は、少しずつ失われていく。でも、私が側にいることは、忘れない。

私は、正太郎さんの手を取り、優しく微笑んだ。

「正太郎さん、今日はどこに行きましょうか？」

正太郎さんは、嬉しそうに微笑んだ。

「美咲、君と一緒なら、どこでもいい」

私は、正太郎さんと一緒に、夕焼けの中を歩き出した。

晩夏の夕暮れは、どこまでも優しく、私たちを包み込んでいた。

私は、迷い込んだ迷路から、少しだけ抜け出せた気がした。