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## 湯けむり情炎

箱根の山々は、秋の色に染まり始めていた。その麓にひっそりと佇む温泉旅館「翠月」は、創業百余年の老舗だ。女将の美代子(52)は、艶やかな着物を身にまとい、玄関先で客を迎えていた。

美代子は、都会の喧騒から逃れてきたような客たちの顔を一人一人見つめ、心の中で歓迎の言葉を呟く。「ようこそ、翠月へ。どうぞ、ごゆっくりおくつろぎください。」

旅館の経営は決して楽ではなかった。バブル崩壊後、客足は減り、近隣の旅館が次々と廃業していくのを目の当たりにしてきた。しかし、美代子は諦めなかった。時代に合わせ、新たなサービスを取り入れ、細やかな心配りでリピーターを増やしてきたのだ。

その美代子の努力を陰ながら支えているのは、夫の誠一だった。誠一は、旅館の料理長として、地元産の食材をふんだんに使った料理で客をもてなしていた。夫婦二人三脚で、翠月を守り続けてきたのだ。

ある日、翠月に一人の若い男、健太(28)が宿泊することになった。健太は、都内のIT企業に勤めるサラリーマンで、連日の残業で疲れ切っていた。温泉と美味しい料理で癒されたいと、翠月を選んだのだ。

美代子は、健太の疲れ切った顔を見て、母親のような気持ちになった。夕食時、健太に声をかけ、料理の説明をした。「今日は、地元で採れたての鮎をご用意しました。どうぞ、お召し上がりください。」

健太は、美代子の優しい笑顔に、心が安らぐのを感じた。「ありがとうございます。いただきます。」

夕食後、健太は一人で露天風呂に入った。澄み切った空気の中、湯に浸かっていると、日頃の疲れが溶けていくようだった。風呂から上がると、美代子が冷たい麦茶を用意して待っていた。

「ゆっくり休んでくださいね。何かあれば、いつでも声をかけてください。」美代子はそう言って、優しく微笑んだ。

健太は、美代子の気遣いに、感謝の気持ちでいっぱいになった。都会では忘れかけていた、人の温かさに触れた気がした。

その夜、健太はなかなか寝付けなかった。美代子の優しい笑顔が、脳裏に焼き付いて離れない。翌朝、健太は美代子に、感謝の気持ちを伝えた。

「昨日は、ありがとうございました。おかげで、ゆっくり休めました。」

美代子は、照れくさそうに微笑んだ。「いえいえ、どういたしまして。また、いつでもいらしてくださいね。」

健太は、その言葉に、胸が熱くなるのを感じた。

数日後、健太は再び翠月を訪れた。今度は、仕事の疲れを癒すためだけでなく、美代子に会いたいという気持ちが強かった。

美代子は、健太の再訪を心から喜んだ。健太も、美代子の笑顔を見て、心が満たされるのを感じた。

二人は、夕食を共にし、語り合った。健太は、自分の仕事や将来の夢について、美代子は、旅館の経営や家族のことについて話した。

話しているうちに、二人の距離は次第に縮まっていった。健太は、美代子の優しさや包容力に惹かれ、美代子は、健太の純粋さや誠実さに惹かれた。

ある夜、健太は美代子に告白した。「美代子さんのことが好きです。歳の差があるのは分かっています。でも、どうしてもこの気持ちを伝えたかった。」

美代子は、驚きを隠せなかった。まさか、自分に若い男が好意を抱くなんて、考えもしていなかった。

「健太さん、ありがとうございます。でも、私は…」美代子は、言葉を詰まらせた。

健太は、美代子の手を握りしめた。「分かっています。でも、どうか、僕の気持ちを受け止めてください。」

美代子は、健太の真剣な眼差しに、心を揺さぶられた。夫への感謝、旅館の将来、世間体…様々な思いが頭を駆け巡る。

「少し、時間をください。」美代子は、そう言って、健太の手をそっと離した。

それから数日間、美代子は自問自答の日々を送った。夫への裏切りになるのではないか、旅館に迷惑がかかるのではないか、様々な不安がよぎった。

しかし、同時に、健太への抑えきれない想いもまた、美代子を苦しめた。心の奥底にしまい込んでいた、女性としての感情が、健太によって呼び起こされたのだ。

ある日、美代子は誠一に、健太のことを打ち明けた。「誠一さん、私…健太さんに好意を寄せられているの。」

誠一は、驚きながらも、冷静に美代子の話を聞いた。「そうか。健太君は、良い青年だ。でも、お前はどうなんだ？本当に、健太君のことが好きなのか？」

美代子は、涙ながらに答えた。「正直、戸惑っています。でも、健太さんのことは、嫌いではありません。」

誠一は、美代子の頬に手を添え、優しく微笑んだ。「お前の気持ちは分かった。無理に決める必要はない。ゆっくり考えればいい。」

誠一の言葉に、美代子は救われた。夫の優しさに触れ、改めて、自分の気持ちと向き合うことができた。

そして、美代子は、健太に自分の気持ちを伝えることを決意した。

「健太さん、あなたのお気持ち、ありがとうございます。私も、あなたのことを、異性として意識しているのは事実です。でも、私は、あなたと添い遂げることはできません。」

健太は、覚悟していたとはいえ、やはり落胆の色を隠せなかった。「そうですか…」

美代子は、健太の手を握りしめた。「でも、私たちは、これからも友人として、良い関係を築いていけると思っています。あなたは、私にとって、かけがえのない存在です。」

健太は、美代子の言葉に、希望を見出した。「ありがとうございます。美代子さんの気持ちが分かっただけでも、嬉しいです。」

二人は、その後も、翠月で交流を続けた。恋人にはなれなかったが、互いを尊重し、支え合う、特別な関係を築いていった。

そして、美代子は、女将として、翠月を守り続ける決意を新たにした。健太との出会いは、美代子にとって、新たな人生の扉を開けるきっかけとなったのだ。

箱根の山々は、冬の到来を告げるように、白く雪化粧を始めた。翠月の湯けむりは、静かに立ち上り、訪れる人々を優しく包み込んでいた。美代子の笑顔は、今まで以上に輝きを増し、翠月を訪れる全ての人々を、温かく迎え入れていた。彼女の心には、秘めた情熱と、未来への希望が、静かに燃え続けていた。