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## 鏡の中の嘘

鈍色の雨がアスファルトを叩きつける音が、耳にまとわりつく。雨宮美咲は、ラブホテルの駐車場に停めた自分の車の中で、深呼吸を繰り返していた。フロントガラスを叩きつける雨粒が、まるで自分の心を映し出しているかのようだった。

今日で何度目だろうか。この場所に来るのは。夫の亮太には、「友人とランチ」と告げて家を出てきた。嘘をつく度に、罪悪感がナイフのように胸を抉る。

美咲はバックミラーで自分の顔を見た。30代半ば。丁寧に手入れされた髪、薄化粧の下には隠しきれない疲労の色が滲んでいる。亮太との結婚生活は5年になる。互いに愛し合って結婚したはずだった。しかし、いつからか二人の間には目に見えない壁ができていた。

亮太は仕事に没頭し、家に帰ってくるのはいつも深夜。美咲は寂しさを紛らわすように、料理教室に通ったり、ジムで汗を流したりしたが、心の空洞は埋まらなかった。そんな時、偶然、昔の恋人である和也と再会した。

和也は、美咲の大学時代の恋人だった。情熱的で、いつも美咲を笑わせてくれた。別れてからも、時々連絡は取り合っていたが、再会したことで、二人の間に封印されていた感情が再び溢れ出した。

和也との逢瀬は、美咲にとって束の間の現実逃避だった。亮太には言えない悩みや、日々の鬱憤を和也に打ち明けることで、心が軽くなった。そして、何よりも、和也は美咲を女性として見てくれた。亮太が忘れてしまった、情熱的な眼差しで。

美咲は、意を決して車を降り、ホテルのエントランスへと向かった。フロントで予約していた部屋の鍵を受け取り、エレベーターに乗り込んだ。エレベーターの鏡に映る自分の顔は、どこか怯えているように見えた。

部屋に入ると、和也は既に到着していた。窓の外の雨音が、室内の静寂を際立たせる。和也は、美咲の顔を見るなり、優しく抱きしめた。

「美咲、ごめんね。こんな思いをさせて。」

和也の声は、いつも美咲を安心させた。美咲は和也の胸に顔を埋め、静かに涙を流した。

「和也…私、どうしたらいいかわからない。」

「無理しなくていいんだよ。美咲が一番幸せになれる道を選んで。」

和也は、美咲の肩を抱き、ベッドに腰掛けさせた。二人はしばらく、黙って窓の外の雨を眺めていた。

「ねえ、和也。もし、私たちの関係が亮太にバレたら…どうなるんだろう。」

美咲の言葉に、和也は少し考え込んだ。

「亮太さんは…辛いだろうね。でも、美咲が苦しんでいることも、きっと分かってくれるはずだ。」

その時、美咲のスマートフォンが震えた。画面には「亮太」の文字が表示されていた。美咲は息を呑んだ。

「ごめん、ちょっと出てくる。」

美咲は、慌てて部屋を出て、廊下で電話に出た。

「もしもし、亮太？」

「美咲、今どこにいるんだ？」

亮太の声は、いつものように落ち着いていたが、どこか冷たく響いた。

「え…友人とランチだけど…どうかした？」

「ランチ？本当に？」

亮太の言葉に、美咲は言葉を詰まらせた。

「実は、会社に匿名のメールが届いたんだ。『雨宮亮太の妻が、○○ホテルの部屋に不倫相手と入っていくのを見た』って。」

美咲の心臓が凍りついた。匿名メール…誰が？

「亮太…それは…」

「嘘だと言ってくれ、美咲。」

亮太の声は、今にも泣き出しそうだった。美咲は、返す言葉が見つからなかった。

「亮太…ごめん…」

美咲の謝罪を聞いた瞬間、電話の向こうで亮太が息を呑む音が聞こえた。

「なぜだ…なぜ、僕を裏切るんだ？」

亮太の声は、絶望に満ちていた。

「亮太…私も、苦しかった…」

美咲は、涙を流しながら、亮太に今までの気持ちを正直に話した。亮太が仕事にばかり没頭し、自分を女性として見てくれなくなったこと。和也との再会で、心が救われたこと。

亮太は、しばらく黙って聞いていた。そして、静かに言った。

「分かった。もういい。二度と、僕の前に現れないでくれ。」

亮太は、電話を切った。美咲は、スマートフォンを握りしめ、その場に崩れ落ちた。

部屋に戻ると、和也は心配そうに美咲を見つめていた。

「どうしたの？顔色が悪いよ。」

美咲は、亮太との電話の内容を和也に話した。和也は、美咲を優しく抱きしめた。

「美咲、辛かったね。でも、これで良かったんだ。もう、嘘をついて生きる必要はないんだよ。」

和也の言葉に、美咲は少しだけ救われた気がした。しかし、同時に、これから始まるであろう苦難を思うと、不安でいっぱいだった。

数日後、美咲は亮太に離婚を申し出た。亮太は、予想通り激怒したが、最終的には離婚に同意した。

離婚後、美咲は和也と一緒に暮らし始めた。最初は幸せだった。しかし、時間が経つにつれて、二人の間には、亮太とのことが影を落とすようになった。

美咲は、時々、亮太のことを思い出した。亮太は、今、どうしているのだろうか。元気だろうか。

そして、何よりも、あの匿名メールのことが気になった。一体誰が、美咲と和也の関係を知っていたのだろうか。

ある日、美咲は、偶然、昔の友人と再会した。その友人は、なんと、あのラブホテルの清掃員として働いていた。

「ねえ、実はさ…」

友人は、顔をしかめて言った。

「あのホテル、最近、盗撮騒ぎがあったんだよ。一部の従業員が、客室に小型カメラを仕掛けて、客の性行為を撮影していたらしいんだ。」

美咲は、背筋が凍りつくのを感じた。盗撮…まさか…

「その盗撮された映像が、インターネットに流出して…大変な騒ぎになっているんだよ。」

友人の言葉を聞いた瞬間、美咲は全てを理解した。あの匿名メールは、盗撮された映像を見た誰かが、亮太に送ったものだったのだ。

美咲は、急いで自分のパソコンを開き、インターネットで検索した。すると、すぐに、問題の盗撮映像がアップロードされているサイトを見つけた。

美咲は、震える手で、そのサイトを開いた。そして、目を覆いたくなるような光景を目にした。

そこに映っていたのは、紛れもなく、自分と和也がラブホテルで過ごした時の映像だった。

美咲は、絶望の淵に突き落とされた。自分のプライバシーが、無惨にも晒されている。亮太との関係を壊しただけでなく、自分自身も、深く傷つけられた。

美咲は、盗撮犯を絶対に許さないと誓った。そして、弁護士に相談し、盗撮犯の特定と、映像の削除を依頼した。

長い戦いの末、盗撮犯は逮捕され、映像は削除された。しかし、美咲の心に残った傷は、簡単には癒えなかった。

美咲は、過去の過ちを悔いながらも、前を向いて生きていくことを決意した。盗撮の被害に遭った他の女性たちを支援するため、NPO法人を設立し、活動を始めた。

鏡の中の嘘は、いつか真実になる。そして、真実は、人を傷つけることもあれば、救うこともある。美咲は、真実と向き合い、新たな人生を歩み始めた。雨上がりの空には、美しい虹がかかっていた。