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## 終電と、ベッドと、真実

「え、嘘…」

加班は日常茶飯事。特にこの時期は、月末の締め作業で誰もが疲労困憊していた。駅前の喧騒も、もう彼にとっては単なるBGMでしかない。今夜もまた、気付けば終電の時間が迫っている。

「佐藤さん、まだ残ってるんですか？」

背後から聞こえた声に、田中はびくりと肩を震わせた。振り向くと、そこには部署の課長である佐藤さんが立っていた。佐藤さんは、温厚で誠実、そして何より仕事熱心な人物として部署内で絶大な信頼を得ていた。部下からの人望も厚く、誰もが「佐藤課長なら大丈夫」と安心して仕事を任せられる、そんな存在だった。

「あ、佐藤課長…お疲れ様です。はい、まだ少しだけ…」

田中は慌てて書類を片付け始めた。普段はテキパキと仕事をこなす彼女だが、この疲労感の中では集中力も散漫になりがちだ。

「無理しないでくださいよ。もう十分頑張りました」

佐藤さんは、普段の優しい笑顔を浮かべながら、田中のデスクに近づいてきた。その言葉に、田中の胸にじんわりと温かいものが広がった。

「でも、明日までに終わらせないと…」

「大丈夫。明日、私が引き継ぎますから。今日はもう帰りましょう」

「えっ、でも…」

「いいから、いいから。ほら」

佐藤さんは、田中の肩にそっと手を添えた。その手は、想像していたよりもずっと温かかった。そして、どこか安心感を与えるような力強さがあった。

「終電、間に合いますか？」

「…もう、無理だと思います」

田中がそう答えると、佐藤さんは少し考えてから言った。

「私の家、近いですから。もしよろしければ、泊まっていきませんか？　もちろん、無理強いはしませんよ」

「えっ！？　佐藤課長の、お宅に…？」

田中は予想外の提案に、顔が赤くなるのを感じた。彼女は独身で、一人暮らし。上司の家に行くなんて、全く想像していなかった。しかも、終電を逃したという、やや親密な状況で。

「え、えっと…」

「いや、もし迷惑でなければ、の話です。すぐにでもタクシーを呼んでもらって、帰ることもできますし」

佐藤さんは、田中の戸惑いを察してか、すぐにフォローを入れた。しかし、その誠実な態度は、かえって田中の心を揺さぶった。彼女は、佐藤さんが自分のことを気遣ってくれていることを感じ取っていた。

「…あの、ご迷惑でなければ…」

結局、田中は佐藤さんの提案を受け入れた。断る理由も、他に手段もなかった。

佐藤さんの家は、想像していたよりもずっと落ち着いた雰囲気だった。シンプルな家具が並び、清潔感のある空間が広がっていた。

「どうぞ、楽にしてください。飲み物でもお出ししましょうか？」

「あ、いえ、大丈夫です。あの、本当にありがとうございます」

田中は、ソファに座りながら、まだ少し緊張していた。佐藤さんは、キッチンから冷たいお茶を持ってきてくれた。

「ゆっくり休んでください。明日の朝、早めに起こしますので」

「はい。おやすみなさい」

田中は、促されるままに、佐藤さんが用意してくれた寝室へと向かった。シングルベッドが一つ。少し狭いな、とは思ったが、他に選択肢はない。彼女は、布団に入り、目を閉じた。

（まさか、こんなことになるなんて…）

心臓がドクドクと高鳴る。頭の中では、色々な考えが駆け巡っていた。上司の家に泊まるという事実に、興奮と不安が入り混じっていた。

（間違いなんて、起こりませんよね…？　…なんて、聞くわけないか）

彼女は、自分でも思ってもみなかった言葉が口をついて出そうになるのを必死で抑えた。普段は、理性的に物事を判断できる彼女だったが、この状況では、普段の自分を見失いそうだった。

どのくらい眠っただろうか。ふと目が覚めると、部屋は真っ暗だった。そして、すぐ隣に、誰かの温もりを感じた。

（…佐藤さん？）

恐る恐る、そっと顔を向けると、そこには佐藤さんが眠っていた。彼女が寝室に入ってから、ずっと外で寝てくれていたのだろうか。いや、そんなはずはない。

（え…？）

田中は、自分の状況に気づいて、息を飲んだ。彼女は、佐藤さんの隣に、ぴったりとくっつくようにして眠っていたのだ。そして、何より驚いたのは、佐藤さんの腕が、彼女の腰に回されていたことだった。

（嘘…なんで…？）

彼女は、パニックになりそうになった。すぐにでも佐藤さんから離れなければ。しかし、その腕は、まるで磁石のように、彼女を離さない。

「…う、うん…」

佐藤さんが、寝返りを打った。その拍子に、顔が田中の顔に近づく。吐息が、彼女の肌に触れた。

「…佐藤、さん…？」

田中は、震える声で、佐藤さんの名前を呼んだ。しかし、佐藤さんは、まだ眠っているようだった。

（どうしよう…）

彼女は、どうすればいいのか分からなかった。逃げたい、でも、逃げられない。その密着感に、体の芯から火照っていくのを感じた。

その時、佐藤さんが、ゆっくりと目を開けた。そして、田中と目が合う。

「…田中さん…？」

佐藤さんの声は、まだ寝ぼけていた。しかし、その瞳には、驚きと、そして…何か別の感情が宿っているように見えた。

「…あの、すみません…私、いつの間にか…」

田中は、弁解しようとした。しかし、佐藤さんは、彼女の言葉を遮るように、そっと彼女の頬に手を伸ばした。

「大丈夫です。楽にしてください」

その言葉に、田中はさらに混乱した。楽に？　こんな状況で、どうすれば楽になれるというのだろうか。

「…あの、私、どうしても、ここにいるのは…」

「…田中さん」

佐藤さんが、彼女の言葉を遮り、静かに言った。

「…もう、大丈夫です」

「え？」

「ずっと、我慢していましたから」

佐藤さんの言葉の意味を、田中はすぐに理解できなかった。しかし、彼の瞳に宿る真剣な光を見て、何かが起こる予感がした。

「…我慢…？」

「はい。ずっと、田中さんのことを…」

佐藤さんの言葉は、そこで途切れた。そして、彼は、ゆっくりと田中との距離を詰めてきた。田中の心臓は、破裂しそうなほどに高鳴っていた。

「…間違い、なんて、起こりませんよね…？」

彼女が、先ほど心の中で思っていた言葉が、不意に口をついて出てしまった。

佐藤さんは、その言葉に、かすかに微笑んだ。

「…はい。間違いなんて、起こりません」

そして、彼は、田中のかすかな抵抗を、優しく包み込むように、唇を重ねた。

それは、突然の、しかし、ずっと秘めていた想いの、静かな告白だった。終電を逃した夜は、田中にとって、そして佐藤さんにとっても、二人の関係を大きく変える夜となった。

（…これが、間違い、なんだろうか…）

田中は、佐藤さんの腕の中で、そう思った。しかし、その心には、後悔よりも、不思議な安堵感と、そして、これから始まるであろう新しい関係への期待感が、静かに広がっていた。