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## 昼下がりのオフィス、真昼の誘惑

西陽がオフィスに差し込み、薄茶色の絨毯に長い影を落としていた。午後の眠気を誘う静けさの中、唯一聞こえるのはキーボードを叩く音と、時折響くコピー機の稼働音だけ。そんなありふれた日常を送っていたのは、総合商社「東都物産」の経理部で働く、田中陽子だった。

陽子は三十歳。独身で、仕事もそこそこ順調。しかし、どこか物足りなさを感じていた。それは、華やかな取引先との交渉に華を咲かせる営業部とは違い、数字とにらめっこするだけの地味な仕事に、彼女自身の人生も色褪せていくような感覚。そして、大学時代から付き合っていた彼氏とは、価値観のずれから半年前に別れ、現在は孤独な日々を送っていた。

そんな陽子の心を、密かに占めていたのは、彼女の部署の主任である、佐藤健一だった。佐藤主任は四十代半ば。誠実で、部下からの信頼も厚い、いわゆる「できる男」。しかし、陽子にとって彼は、尊敬する上司というだけでなく、どこか惹かれる存在でもあった。細身で、いつも清潔感のあるスーツを着こなし、穏やかながらも芯のある声で指示を出す姿。そして、時折見せる、ふとした瞬間の寂しげな瞳。陽子は、そんな佐藤主任に、秘かに淡い恋心を抱いていた。

「田中さん、この資料、明日の会議で使うんだけど、明日までに仕上げられるかな？」

夕方、佐藤主任が陽子のデスクに歩み寄ってきた。いつもなら、少し緊張しながらも、笑顔で「はい、頑張ります！」と答える陽子だが、今日はなぜか、言葉が喉に詰まってしまう。

「あの、主任…」

「うん？」

「私、今日、ちょっと、残業があるんですが…」

陽子は、自分でも予想外の言葉を口にしていた。明日の会議の資料は、確かに今日中に仕上げる必要があったが、まだ時間には余裕があった。しかし、なぜか、今、佐藤主任と二人きりになりたい衝動に駆られたのだ。

佐藤主任は、陽子の言葉に少し驚いた顔をしたが、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。

「そうか。無理しないでね。もし大変だったら、手伝うよ。」

「いえ、大丈夫です。」陽子は、さらに強気な言葉を口にした。まるで、自分自身を奮い立たせるように。

その夜、陽子は結局、佐藤主任のデスクで、一人で資料の最終確認をしていた。オフィスには、もう彼女一人しか残っていない。時計の針は、終電の時間をとうに過ぎていた。

「やばい…終電、逃しちゃった。」

ため息をつきながら、陽子は携帯電話を取り出した。自宅に連絡しようとしたその時、背後から声がかかった。

「田中さん、まだ残ってたんだね。」

佐藤主任だった。彼は、先ほどまで自分のデスクで仕事をしていたが、いつの間にか陽子の隣に立っていた。

「佐藤主任…！」

「終電、逃しちゃったみたいだね。」

「はい…」

「実家は遠いんだっけ？」

「はい、電車で2時間くらいかかります。」

「そっか…。じゃあ、今からタクシー呼んでも、家に着く頃には朝になっちゃうね。」

佐藤主任は、困ったように眉をひそめた。陽子も、これからどうしようかと途方に暮れていた。

「あの…主任。ご自宅は、この近くだったんですか？」

陽子は、恐る恐る尋ねた。まさか、そんなことを聞くつもりはなかったのに、衝動的に言葉が出てしまった。

「ああ、うん。歩いて15分くらいのところだよ。」

「えっ…」

「もしよかったら、うちで泊まっていかない？ 大した部屋はないけど、布団くらいは敷けるよ。」

佐藤主任は、真剣な顔で陽子を見つめた。その瞳は、いつも以上に優しく、そして、どこか迷いを含んでいた。

陽子は、心臓が早鐘のように鳴るのを感じた。佐藤主任の家で一夜を明かす？ その言葉が、頭の中でぐるぐると駆け巡る。これは、チャンスなのだろうか？ それとも、ただの親切心？

「私、構いませんよ？」

陽子は、自分でも驚くほど smooth に、その言葉を口にした。まるで、ずっと前からこの瞬間を待っていたかのように。

佐藤主任は、陽子の言葉に、一瞬、目を見開いた。しかし、すぐに優しく微笑み、

「ありがとう、田中さん。助かるよ。」

そう言って、陽子の肩にそっと手を置いた。その温かい感触に、陽子の体は、まるで電流が走ったかのように震えた。

二人は、静まり返ったオフィスを出て、夜の街を歩き始めた。街灯の明かりが、佐藤主任の横顔を淡く照らし出す。陽子は、彼の隣を歩きながら、期待と不安の入り混じった感情に包まれていた。

佐藤主任の家は、小ぢんまりとしたマンションの一室だった。中は、予想以上に綺麗に片付いており、温かい木のぬくもりを感じさせる家具が置かれていた。

「どうぞ、楽にして。コーヒーでも淹れようか？」

「ありがとうございます。」

陽子は、ソファに腰を下ろした。佐藤主任は、キッチンでコーヒーを淹れている。その背中を見ながら、陽子は、今日という日が、いかに特別で、そして、これから何が起こるのか、想像もできないような感覚に襲われていた。

コーヒーを片手に、佐藤主任は、陽子の隣に座った。二人の間には、先ほどまでのオフィスとは違う、親密な空気が流れていた。

「田中さんも、一人暮らしなんだ？」

「はい。もう、かれこれ5年になります。」

「そうなんだ。僕も、もう10年以上一人だよ。」

佐藤主任は、そう言って、少し寂しげな笑みを浮かべた。その笑顔に、陽子の心は、さらに切なく締め付けられた。

「あの、主任…」

陽子は、またしても、口を開いた。今度は、ためらうことなく。

「私、主任のこと…ずっと、尊敬していました。」

「え？」

佐藤主任は、驚いた顔で陽子を見た。

「それに、その…」

陽子は、さらに顔を赤らめながら、言葉を続けた。

「主任とだったら…私は、構いませんよ？」

その言葉は、まるで、ずっと秘めていた想いを解き放ったかのようだった。陽子は、もう、後戻りはできないことを悟っていた。

佐藤主任は、しばらくの間、黙って陽子を見つめていた。その瞳は、驚き、戸惑い、そして、かすかな期待の色を帯びていた。

「田中さん…？」

「はい。」

「君は、本気で言ってるのかい？」

「はい。本気です。」

陽子は、まっすぐに佐藤主任の瞳を見つめ返した。

佐藤主任は、ゆっくりと、陽子に顔を近づけた。そして、その唇が、陽子の唇に触れた。それは、まるで、長い間待ち焦がれていたような、熱いキスだった。

陽子の体は、熱を帯びていく。佐藤主任の指が、彼女の髪を優しく撫でる。そして、その手は、ゆっくりと、彼女の服の中へと忍び込んでいった。

「主任…」

陽子は、息を乱しながら、佐藤主任の名前を呼んだ。

「大丈夫だよ、田中さん。」

佐藤主任は、そう言って、陽子を抱きしめた。その腕は、彼女がこれまで感じたことのないほど、温かく、そして力強かった。

二人の肌が触れ合う。それは、禁断の扉を開ける音のように、静かに、そして確かな響きを伴って、響き渡った。

その夜、東都物産経理部の田中陽子は、誠実と評判の中年上司、佐藤健一の腕の中で、初めて、人妻社員として、そして女性として、真の悦びを知った。それは、同情から始まった一夜の出来事だったのかもしれない。しかし、その一夜が、二人の人生に、どれほど深く、そして、抗いがたい影響を与えていくのか、この時はまだ、誰にも分からなかった。