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## 蜜月の迷宮

雨音がしとしととビジネスホテルの窓を叩いていた。薄暗い室内には、アロマオイルの甘い香りが漂い、わずかに緊張した空気を和らげているようだった。エステティシャンの美咲は、ベッドにうつ伏せになった客、田中の背中にゆっくりとオイルを塗り広げた。

「肩、凝ってますね」

美咲は丁寧な口調で話しかけた。田中は唸るように答えた。「ああ、長時間の移動と会議で、ガチガチだよ」

美咲は、東京の一等地にあるメンズエステ店「エデン」に所属するセラピストだ。彼女は、その落ち着いた物腰と確かな技術で、顧客からの指名も多い人気セラピストだった。しかし、彼女には誰にも言えない秘密があった。それは、彼女がこの仕事を選んだ、少しばかり歪んだ動機だった。

美咲は元々、平凡な主婦だった。結婚して５年、夫との間には子供もいなかった。夫は真面目なサラリーマンで、生活には不自由なかったが、どこか物足りなさを感じていた。そんな時、彼女は偶然、エデンの求人広告を目にしたのだ。高収入、自由な時間、そして…「人妻セラピスト」という言葉が、彼女の心に引っかかった。

「人妻」という響きには、どこか背徳的な魅力があった。夫以外の男性に触れられること、そして、それを隠し通すことへの禁断の興味。美咲は、その好奇心を抑えきれず、エデンの面接を受けたのだ。

エデンは、一見すると普通のメンズエステ店だった。しかし、その裏では、客とセラピストの個人的な交渉によって、様々な「サービス」が行われていた。もちろん、店側がそれを推奨しているわけではない。あくまで「自己責任」という名の下に、グレーゾーンが広がっていたのだ。

美咲は、最初こそ戸惑ったものの、徐々にその世界に慣れていった。彼女を指名する客の多くは、優しそうな顔で、巧妙に「それ以上」を求めてきた。中には、露骨に下半身を触ってくる者や、性的な言葉を投げかけてくる者もいた。

美咲は、最初は毅然とした態度で拒否していた。しかし、客からの執拗な要求、そして、高額なチップをちらつかされるうちに、彼女の心は揺らぎ始めた。

「ほんの少しだけなら…」

彼女はそう言い訳しながら、客の要求に応えていった。最初はキスだけ、次は服の上から触れるだけ、そして、最後には…

美咲は、背徳的な快楽に溺れていった。夫には決して見せない顔で、客を誘惑し、悦ばせる。その行為は、彼女にとって、日常の鬱憤を晴らすための、一種のセラピーになっていたのだ。

そんなある日、美咲は常連客の田中を施術していた。田中は、いつも物静かで、紳士的な態度だった。しかし、今日は様子が違った。

「美咲さん、今日は特別な気分なんです」

田中は、突然そう言い出した。美咲は警戒した。

「どういう意味ですか？」

「今日は、もっと深い癒しを求めているんです」

田中は、体を起こし、美咲の手を握った。その手は、明らかに震えていた。

「田中さん、私はそういうサービスは…」

美咲は言いかけたが、田中の言葉に遮られた。

「分かっています。でも、お願いです。あなたにしか、僕を癒せないんです」

田中の目は、真剣だった。美咲は、彼の瞳の奥に、深い孤独を見た。

「…少しだけですよ」

美咲は、小さな声で答えた。田中は、安堵したように微笑んだ。

そこから先は、まるでスローモーションのようだった。美咲は、田中の服をゆっくりと脱がせ、彼の体をオイルでマッサージし始めた。彼女の手つきは、いつも以上に丁寧で、優しかった。

田中は、目を閉じ、美咲の指先が触れるたびに、小さく息を呑んだ。彼は、まるで子供のように、美咲に身を委ねていた。

美咲は、田中の体を隅々までマッサージしながら、彼の人生について考えた。彼は、一体どんな過去を背負っているのだろうか？ どんな孤独を抱えているのだろうか？

そんなことを考えているうちに、美咲の心の中に、今まで感じたことのない感情が芽生え始めた。それは、同情でも、快楽でもない、もっと複雑で、曖昧な感情だった。

田中は、突然、美咲の手を握りしめた。

「美咲さん…」

彼は、震える声で言った。美咲は、彼の顔を見つめた。

「どうしましたか？」

「あなたに、触れてもいいですか？」

田中は、そう言いながら、美咲の頬に手を伸ばした。美咲は、一瞬、躊躇したが、彼の瞳の奥に、悲しみを見た。

「…いいですよ」

美咲は、静かに答えた。田中は、ゆっくりと彼女の頬を撫でた。その手は、とても優しく、温かかった。

美咲は、自分の心が、何かに溶けていくような感覚を覚えた。彼女は、自分が今、何をしようとしているのか、分からなくなっていた。

その時、部屋のドアがノックされた。美咲は、ハッとして我に返った。

「誰ですか？」

「フロントからです。田中様宛に、お荷物が届いております」

美咲は、田中と顔を見合わせた。２人の間には、気まずい沈黙が流れた。

「…私が、受け取ってきます」

美咲は、そう言って、慌てて服を着て、ドアを開けた。

フロントの係員は、にこやかに荷物を差し出した。

「こちら、田中様宛のDVDです」

美咲は、荷物を受け取り、部屋に戻った。田中は、ベッドに座って、不安そうに彼女を見ていた。

「…DVD？」

美咲は、荷物を開けた。中には、確かにDVDが入っていた。ジャケットには、大きな文字で「蜜月の迷宮」と書かれていた。

美咲は、背筋がゾッとした。彼女は、以前、エデンのオーナーから、このDVDの存在を聞いたことがあった。それは、客とセラピストの性的行為を、隠しカメラで撮影した、違法な映像だった。

美咲は、DVDを手に、震え出した。彼女は、自分が、とんでもない罠にかけられたことに気が付いたのだ。

「…これは、一体…」

田中は、困惑したように言った。美咲は、彼を睨みつけた。

「あなたは、知っていたんですね？ このDVDのことを！」

田中は、慌てて否定した。

「違います！ 知りません！ 本当です！」

美咲は、田中の言葉を信じなかった。彼女は、彼が最初から、自分を陥れるために近づいてきたのだと思った。

「…あなたは、最低だ」

美咲は、そう言って、DVDを床に叩きつけた。DVDは、粉々に砕け散った。

田中は、呆然と立ち尽くしていた。美咲は、彼に背を向け、部屋を飛び出した。

雨は、さらに激しく降り続いていた。美咲は、ずぶ濡れになりながら、街を彷徨った。彼女は、自分の人生が、音を立てて崩れていくのを感じていた。

彼女は、一体どこへ向かえばいいのだろうか？ そして、この「蜜月の迷宮」から、抜け出すことはできるのだろうか？

美咲の心は、絶望に染まっていた。