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## 馴染みのカウンターに灯る、ふたつの影

いつものように、馴染みの居酒屋「赤ちょうちん」のカウンターに滑り込んだ。店に入ると、マスターが「あ、マスター、いつものね」と声をかける前に、私の顔を見てにやりと笑う。この常連ぶりが、私自身の日常を映し出しているかのようだ。

今日は会議が長引いた。いや、長引いたというより、疲弊しただけかもしれない。数字とにらめっこし、数字に追われる日々。唯一の息抜きが、この一杯のビールと、目の前で繰り広げられる人間模様だ。赤ちょうちんのカウンターは、私の秘密の聖域であり、社会の縮図でもあった。

ビールを呷りながら、ぼんやりと店を見回す。常連客たちが談笑し、マスターが手際よく料理を出す。そこに、いつもと違う空気が漂っていた。カウンターの端の方に、見慣れない女性が一人で座っている。ロングヘアが上品にまとめられ、落ち着いた雰囲気のワンピース。どう見ても、今日の私と同じように、仕事帰りにふらっと立ち寄った、そんなたたずまいだ。

彼女もまた、一人で静かにビールを飲んでいる。時折、スマートフォンに目をやるが、その表情はどこか遠くを見ているようでもあった。私は、別に誰かに話しかけたいわけでも、ましてやナンパしたいわけでもない。ただ、この空間にいることに心地よさを感じているだけだ。でも、彼女の姿が目に留まったのは確かだった。

しばらくすると、店のドアが開いた。入ってきたのは、今日の私とは対照的な、華やかな雰囲気の女性だった。短いボブカットに、少し派手めのワンピース。彼女はカウンターに座るなり、マスターに明るく話しかける。「マスター！お久しぶりです！ 今日はちょっといいことがあったので、奮発しちゃいます！」

その声を聞いた途端、さっきまで静かだったカウンターに、一気に活気が生まれた。マスターも満面の笑みで迎え入れ、彼女の注文を聞いている。どうやら、彼女も常連らしい。しかし、今日の彼女はいつにも増して弾けているように見えた。

ふと、私の視線がカウンターの端にいるロングヘアの女性にいった。彼女もまた、新しい女性の登場に気づいたのか、わずかに顔を上げた。そして、その視線が、私と新しい女性の間を静かに行き来する。

店員が、新しい女性の隣に、空いていた席を案内しようとした。しかし、新しい女性はそれを断り、ロングヘアの女性が座っている方の席を指差した。「あ、隣、空いてるじゃないですか！ちょっとお話ししません？私、一人で飲んでるの、寂しいんですもの。」

ロングヘアの女性は、少し戸惑った表情を見せた。しかし、新しい女性のあまりの勢いに、断りきれないようだった。「え、あの…」

新しい女性は、もはや相手の返事を待つでもなく、ロングヘアの女性の隣に座った。そして、私が座っている方へ顔を向け、満面の笑みでこう言った。「あ、こんばんは！隣、よかったら一緒に飲みませんか？私、もうすぐ酔っ払っちゃいそうなので、誰か話し相手がいないと困るんです！」

私は、思わず吹き出しそうになった。彼女のその率直さと、底抜けの明るさには、抗いがたい魅力があった。そして、ロングヘアの女性も、少し顔を赤らめながらも、微笑み返していた。

こうして、私の馴染みのカウンターには、見知らぬ三人の人間が、予期せぬ形で相席することになった。それは、私の日常においては、あまりにも非日常的な出来事だった。

「私、ゆりえって言います。今日は、本社会議の帰りでヘトヘトなんですけど、この一杯に救われています。」ロングヘアの女性が、そう名乗り出た。彼女の声は、落ち着いているが、どこか芯のある強さを感じさせた。

「ゆりえさん、はじめまして！私、ゆりです！今日ね、仕事でとーっても嬉しいことがあったの！だから、今日はちょっとお祝い気分で来ちゃったんです！」新しい女性が、興奮気味に自己紹介した。彼女の名前は「ゆり」。その名の通り、軽やかで花が咲くような雰囲気を持っていた。

こうして、私たちは三人で話し始めた。ゆりえさんは、落ち着いた話し方で、仕事の苦労や日常の些細な出来事を語ってくれた。一方、ゆりさんは、次々と話題を振りまき、その場を明るく盛り上げていく。私は、二人の話を聞きながら、時折相槌を打つ程度だったが、不思議と退屈しなかった。むしろ、二人の織りなす会話のリズムに、心地よく身を任せていた。

話が進むにつれて、ゆりえさんも、ゆりさんも、少しずつリラックスした様子を見せ始めた。特にゆりさんは、アルコールのせいもあったのだろうか、さらに感情が豊かになり、時折大胆な発言も飛び出した。

「ねぇ、ゆりえさんって、結婚してるんですか？」ゆりさんが、ゆりえさんに尋ねた。
ゆりえさんは、少し間を置いてから、「ええ、結婚しています。主人も、あなたと同じように、とても仕事熱心な人です。」と答えた。

私は、その言葉を聞いて、少しだけ、心の中に黒いものを感じた。まさか、この二人が…。しかし、すぐにそんな考えは打ち消した。私は、ただここにいるだけの人間だ。彼女たちの個人的な事情に、首を突っ込む必要はない。

さらに時間が経ち、テーブルの上には空になったジョッキがいくつか並び始めた。ゆりえさんは、先ほどよりも顔色も良くなり、時折、はにかんだような笑顔を見せるようになった。ゆりさんも、もう完全に酔いが回っているようで、私の腕にさりげなく触れてきたりした。

「ねぇ、マスター。そろそろ締めにして、もう一軒行っちゃおうかなー！」ゆりさんが、マスターに向かって言った。
マスターは、いつものように達観した表情で、「あら、まだ飲んじゃうんですか。でも、いいですね。元気なのは何よりです。」と答えた。

ゆりえさんが、少し驚いた顔でゆりさんを見た。「え、もう一軒ですか？私は、そろそろ帰らないと…。主人にも心配されますから。」
しかし、ゆりさんは、ゆりえさんの言葉に耳を貸すことなく、私の肩に手を回した。「大丈夫だって！ちょっとだけ、もう一杯だけ！ねぇ、あなたもそう思わない？こんなに楽しいんだから、もっと楽しみたいじゃない！」

私は、ゆりさんの熱意に流されそうになった。しかし、ゆりえさんの様子を見ると、どうも乗り気ではないようだった。彼女の顔には、楽しさと共に、どこかためらいの色も浮かんでいた。

「でも、私…」ゆりえさんが言いかけた時、ゆりさんが突然、私の手を取った。「ねぇ、あなた。私、実はあなたみたいなタイプの人、結構好きなんですよ。なんか、落ち着いてて、でも、本当は…」
ゆりさんの言葉は、そこで途切れた。彼女の視線が、私の目をじっと見つめている。その視線に、私はどうしようもなく惹きつけられた。

その時、ゆりえさんが、ふと立ち上がった。「ごめんなさい、私、本当に帰らないといけないんです。今日は、本当に楽しかったです。」そう言って、彼女は早足で店の外へ出て行った。

私の隣にいたゆりさんが、少し残念そうな顔で、「あーあ、行っちゃった。せっかく盛り上がってきたのに。」と言った。
そして、私の手を取っていた彼女の力が、さらに強くなった。「ねぇ、あなた。彼女、行っちゃったけど、私たち、まだ飲み足りないよね？もう一杯だけ、付き合ってほしいな。」

私は、ゆりさんの言葉に、抗うことができなかった。彼女の瞳には、私を誘うような、熱っぽい光が宿っていた。そして、私の心の中にも、今まで感じたことのないような、ざわめきが広がっていた。

その夜、私は、一人で飲みに来たはずの居酒屋で、全く見知らぬ二人と出会った。そして、思わぬ形で、ゆりえさんは先に帰り、ゆりさんと、私はそのまま店を出て、夜の街へと消えていった。それは、私の日常にはなかった、予期せぬ出来事の始まりだった。そして、その夜の出来事が、私に何を意味するのか、当時の私にはまだ、全く理解できていなかった。