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## 琥珀色の夜

冷たい雨がアスファルトを濡らし、街の灯りが滲むように揺れていた。私はカウンター席の端で、琥珀色に輝くウイスキーグラスを指先でそっと撫でていた。ここ「宵待草」は、私のお気に入りの場所だ。賑やかな街の喧騒から少し離れた、隠れ家のような居酒屋。マスターの静かな気配と、常連客たちの気遣いにも似た穏やかな話し声が、私の心をじんわりと温めてくれる。

夫は仕事が忙しく、夜遅く帰宅することも珍しくない。もちろん、家族のために頑張ってくれているのは分かっている。感謝の気持ちも、愛情も、いっぱいある。でも、時々、ふと、深い寂しさに襲われることがあるのだ。誰かに話を聞いてほしい、ただ、そばにいてほしい。そんな、些細な、けれどどうしようもなく切ない願い。

今夜も、そんな夜だった。夫は出張で不在。静かな自宅に一人でいるのが耐えられず、ふらりとこの店に足を運んだ。グラスを傾けながら、窓の外を流れていく車のヘッドライトをぼんやりと眺めている。もう一杯頼もうか、それとも、そろそろ帰ろうか。そんなことを考えていると、不意に、背後から声がかかった。

「あの、隣、いいですか？」

振り向くと、そこに立っていたのは、見知らぬ男性だった。すらりとした体格に、精悍な顔立ち。私の数歩後ろに、すでに椅子が引かれている。少し戸惑いながらも、「どうぞ」と小さく頷いた。

「ありがとうございます。〇〇です。一人で飲んでるんですか？」

彼は、私の隣に座りながら、屈託なく話しかけてきた。その声には、どこか人を惹きつける力があるような気がした。私は、名前だけ名乗り、曖昧に頷いた。

「寂しそうに見えましたんで、つい声をかけてしまいました」

彼は、そう言うと、私のグラスを指差した。

「ウイスキー、お好きなんですね。僕も好きなんですよ」

そう言って、彼はマスターに自分のウイスキーを注文した。私との間に、ぎこちない沈黙が流れる。でも、それは嫌な沈黙ではなかった。むしろ、この静かな空間に、新たな空気が流れ込んできたような、そんな心地よさがあった。

「奥さんは？」

ふと、彼が口を開いた。私は、少しだけ息を呑んだ。この質問をされるだろうとは、思っていたけれど。

「…いません」

嘘だった。夫はいる。でも、この状況で「夫がいます」なんて言ったら、彼はすぐに諦めてしまうかもしれない。そんな、子供じみた、でも、ほんの少しだけ、期待してしまう自分がいた。

彼は、私の言葉に、特に反応を示すでもなく、ただ静かに頷いた。

「そうなんですね。僕も、最近、一人暮らしなんですよ」

そう言って、彼は自分のグラスを掲げた。

「乾杯しましょう」

私は、戸惑いながらも、自分のグラスを彼の方へ向けた。カチン、とグラスが触れ合う音が、静かな店内に響く。その音は、まるで、私の中の何かが、ほんの少しだけ、解き放たれたような、そんな合図のように感じられた。

話しているうちに、彼の話に引き込まれていった。彼は、以前は都市部で働いていたが、心機一転、この町で新しい生活を始めたのだという。仕事の話、趣味の話、そして、過去の恋愛の話。彼の言葉には、飾りがなく、素直さが滲んでいた。

私も、つられて、普段なら決して話さないようなことを口にしていた。夫のこと、日々の生活のこと、そして、心の奥底に秘めている、この満たされない思い。彼は、ただ静かに耳を傾け、時折、相槌を打ってくれた。その視線には、軽蔑も、好奇心もなく、ただ、まっすぐな共感だけがあった。

「寂しい時って、ありますよね」

彼が、ふと、そう呟いた。その言葉は、私の胸の奥底に、そっと触れるような、そんな優しさを含んでいた。私は、何も言えなかった。ただ、静かに頷くだけだった。

「でも、大丈夫ですよ。きっと、いいことありますよ」

彼は、そう言って、私の手をそっと握った。その手は、暖かく、力強かった。驚きと、戸惑いと、そして、ほんの少しの嬉しさが、私の心を駆け巡る。

「この後、もう一杯、どうですか？」

彼の言葉は、誘うようでもあり、問いかけるようでもあった。私は、一瞬、迷った。でも、もう、この場所から離れたくなかった。この、温かい、そして、少しだけ刺激的な、この瞬間から。

「…はい」

私は、小さく頷いた。彼の顔に、柔らかな笑みが浮かんだ。その笑みは、私の心に、静かに、しかし、確かに、温かい光を灯してくれた。

夜は、まだ始まったばかりだった。琥珀色のグラスが、静かに、そして、ゆっくりと、私と彼を包み込んでいく。この夜が、私にとって、どのような意味を持つのか、それは、まだ分からない。けれど、今、この瞬間だけは、寂しさよりも、ほんの少しの希望が、私の心を占めていた。

（この後、物語は、この出会いから展開していく。例えば、彼との関係が深まっていく過程、あるいは、彼女の夫との関係性との対比などを描いていくことで、より深みのある物語になるだろう。）