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## 解放の宵

ビールの泡がグラスの縁を静かに滑り落ちた。あやは、その琥珀色の液体をゆっくりと味わった。夫の、いや、もう夫ではない。昨日、全ての書類にサインを終え、名実ともに一人になった。結婚生活は10年。最初の数年は輝いていたけれど、次第に色褪せ、最後はただの義務感の連鎖となった。だからこそ、この解放感は格別だった。

予約していた小さな居酒屋は、カウンター席とテーブル席が数席のこぢんまりとした空間だった。平日の夜だというのに、賑わっている。一人旅とは言っても、どこかへ行くわけではない。ただ、誰の目も気にせず、自分の好きなように過ごす時間を作りたかっただけだ。だから、こうして行きつけでもない街の居酒屋に飛び込むのも、新鮮な体験だった。

ビールを飲み干し、次に何を頼もうかとメニューに目を走らせた。すると、隣の席にいた男性が、こちらに顔を向けた。ギラギラした目つき。少し濃いめの髭。明らかに、私に話しかけようとしている。結婚していた頃なら、こんな男性からのアプローチは即座に断るか、夫に知らせるかのどちらかだっただろう。しかし、今の私は違う。

「あの、お一人で飲んでらっしゃるんですか？」

思っていた通りの、少し強引な声だった。私は一瞬ためらったが、すぐに笑顔で答えた。

「はい、そうです」

「もしよかったら、少しお話ししませんか？僕も一人で来てて、ちょっと寂しかったんです」

彼の言葉には、下心が透けて見えた。それでも、その強引さが、なぜか心地よかった。私を求めている。それだけで、長年失っていた感覚が蘇るような気がした。

「ええ、構いませんよ」

意外な私の返答に、彼は目を丸くした。そして、すぐに満面の笑みを浮かべた。

「本当ですか！ありがとうございます。じゃあ、遠慮なくお隣に…」

彼は私の隣の席にすっと座ると、すかさず店員を呼んだ。

「生２つと、おつまみ盛り合わせをお願いします！」

私は自分の頼む気満々だった飲み物と食べ物を、彼が代わりに注文していることに、少し戸惑いを覚えつつも、なんだか面白かった。彼は、私と同じように、いや、それ以上に解放されたような顔をしている。

「いやぁ、まさかこんな素敵な方とお話しできるなんて、運がいいな。僕は健一と言います。よろしく！」

彼は手を差し伸べてきた。私は少し迷ったが、その手を取った。

「あやです。よろしくお願いします」

健一さんは、とても話しやすい人だった。仕事の話、趣味の話。他愛もない話で盛り上がった。彼は、私と同じように、最近、仕事で大きな契約を終えたばかりだと言う。保険外交員として、長年勤め上げてきた目標を達成したのだと。その時の彼の興奮と解放感が、今の私と重なった。

「いやー、本当によかった。これで、しばらくは好きなように過ごせる。どこか遠くへ旅行でも行こうかと思ってたんです」

「私も、やっと自由になれた気がして…」

私も、自分の境遇をぽつりと漏らした。健一さんは、それをじっと聞いてくれた。そして、私の肩にそっと手を置いた。

「お疲れ様でした。美味しいお酒でも飲みましょうよ」

彼は私のグラスにビールを注いでくれた。その手つきは、少し大胆だったけれど、嫌な感じはしなかった。むしろ、私の人生に再び刺激を与えてくれるような、そんな予感がした。

私たちがそうして打ち解けている間にも、居酒屋の賑わいは増していく。ふと、視線を感じた。反対側のカウンター席に、私よりも少し若い女性が座っていた。彼女も一人で飲んでいるようだった。時折、こちらに視線を送ってくる。その瞳には、私と同じような、どこか寂しさと、そしてこれから何かが始まるような期待感が宿っているように見えた。

彼女の名前はゆめ。27歳だと言う。あやとは対照的に、まだ経験の浅い、初々しさが残る女性だった。ゆめは、今日は初めての一人旅だと言った。憧れの街を、何も決めずにただ歩き回るのが目的だと。

「なんか、ドキドキします。誰にも何も言われずに、好きなだけ歩けるなんて…」

ゆめはそう言って、少し照れくさそうに笑った。彼女の無邪気な笑顔に、私も思わず笑顔になった。

「わかります。私も、そういう自由な時間、ずっと欲しかったんです」

私たちの会話は、健一さんを交えつつも、次第に私たち二人の間で深まっていった。健一さんは、私たちの間に流れる、少しぎこちないけれど、確かな共感を温かく見守ってくれているようだった。

「あやさん、実は私…今日、初めてなんです。こういうこと」

ゆめが、小さな声で打ち明けた。私は、その「初めて」が何を指すのか、すぐに理解した。彼女の顔が、ほんのりと赤く染まっている。

「そうなんですね。どんなこと？」

私は優しく問いかけた。ゆめは、私の目を真っ直ぐに見つめて、そして言った。

「好きな人を見つけて、二人で、誰にも知られずに、特別な時間を過ごすこと…」

その言葉に、私の胸が高鳴った。私自身も、今日、長年縛られていたものから解き放たれ、新しい自分に生まれ変わったような気分だった。健一さんは、そんな私たちを見て、少し困ったような、でもどこか楽しんでいるような表情を浮かべている。

「二人とも、今日の夜はまだ長いでしょう？もしよかったら、この後、もっと落ち着いた場所で、ゆっくりお話ししませんか？」

健一さんの提案に、私たちは顔を見合わせた。ゆめは、少し不安そうな顔をしたが、私の方を見て、小さく頷いた。私も、何か抗えない力に突き動かされるように、頷いた。

その夜、私たちは誰もいない静かなバーで、さらに会話を深めた。健一さんは、私たち二人のそれぞれの「解放」の物語を、温かく包み込んでくれた。あやは、結婚という名の檻から飛び出し、初めて自分の意思で選んだ、刺激的で甘美な夜に酔いしれていた。ゆめは、まだ見ぬ世界への扉を開き、期待と少しの不安、そして何よりも大きなときめきを感じながら、その扉の向こうに広がる未知の可能性に胸を躍らせていた。

私たちは、互いに名前と連絡先を交換した。これからどうなるかは、誰にもわからない。でも、この解放感に満ちた夜に、大切な「何か」を見つけたような気がした。それは、日常では決して味わうことのできない、特別な魔法のような時間だった。そして、その魔法は、まだ始まったばかりなのだ。グラスを傾けるたびに、微かな期待と、そして自由の喜びが、私たちの心を静かに満たしていた。解放の宵は、まだ、始まったばかりだった。