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## 濡れたアスファルトに咲いた幻

梅雨の気配が濃くなった、蒸し暑い夜だった。街灯のオレンジ色が、雨に濡れたアスファルトに鈍く反射し、まるで泣いているかのようだった。高橋沙織は、一人でアパートの階段を上っていた。夫の健一は出張で、静かな夜は久しぶりだった。しかし、その静寂は、これから訪れる混沌の前触れに過ぎなかった。

「…ん？」

二階の踊り場で、見慣れない男が立っていた。黒いキャップを目深にかぶり、顔は影になっている。沙織は心臓が跳ね上がるのを感じた。

「あなた…誰ですか…？」

震える声で問いかけると、男はゆっくりと顔を上げた。その顔は、冷たく、そしてどこか狂気を孕んでいた。沙織は、その瞬間、全身に鳥肌が立つような恐怖に襲われた。

「やめてください…」

沙織は後ずさりしようとしたが、男は素早く沙織の腕を掴んだ。その力は、想像以上に強かった。

「痛い思いよりも気持ちイイ方がいいだろ？」

男の声は、嘲るように響いた。

「そんな悲しい顔するなよ、気持ちイイことしてんだから笑えよ！」

男の指が、沙織の首筋に触れる。冷たい、湿った感触。沙織は必死に抵抗したが、男の力は圧倒的だった。恐怖と混乱で、頭の中は真っ白になった。

「う…や、やめて…！」

沙織は叫んだ。しかし、その声は、湿った夜の空気に吸い込まれるように、どこにも届かなかった。男は沙織を部屋へと引きずり込み、ドアを乱暴に閉めた。

部屋の中は、男の吐息と、沙織の喘ぎ声だけが響いていた。男は、沙織の服を乱暴に剥ぎ取っていく。抗うたびに、指先が鋭く肌に食い込む。沙織の理性は、恐怖の波に呑み込まれそうになっていた。

（ダメ…こんなところで…健一さんが…）

夫の顔が脳裏をよぎる。あの温かい笑顔、優しい声。それらを思い出すたびに、沙織の心はさらに引き裂かれるような痛みに襲われた。

男は、沙織の耳元で囁いた。

「ほら、こんなに興奮してるじゃないか。俺だけじゃない、お前だって気持ちイイはずだ」

「ち、ちが…！」

沙織は必死に否定したが、男の言葉は虚しく響くだけだった。男の舌が、沙織の頬を這う。ぞっとするような、嫌悪感。

（何てこと…こんな映像、誰が見るっていうの…？）

沙織の頭の中に、あの「閲覧注意の○○映像」という言葉が、不気味な残響のように響いた。自分自身が、その恐ろしい映像の主人公になるなど、想像もしていなかった。

男の指が、さらに奥へと進もうとする。沙織は、痛みと恐怖で、声を失った。ただ、涙が頬を伝い、枕に染みを作っていく。

（助けて…誰か…）

しかし、助けは来ない。ただ、暗闇と、男の喘ぎ声だけが、沙織を包み込んでいた。

…

どれくらいの時間が経ったのだろうか。男は、満足したのか、沙織の体から離れた。荒い息遣いが、部屋に響く。沙織は、動けない。体は鉛のように重く、心は氷のように冷え切っていた。

男は、立ち上がり、部屋の隅に置かれていたスマートフォンを手に取った。

「さて、これで今日の稼ぎは確保だ」

男は、沙織に背を向け、部屋を出て行った。ドアが閉まる音だけが、静かに響いた。

残されたのは、荒らされた部屋と、虚無感に包まれた沙織だけだった。雨音だけが、外から聞こえてくる。それは、まるで沙織の涙の音のように、悲しく響いていた。

沙織は、ゆっくりと体を起こした。床に散らばった自分の服を拾い集める。その全てが、汚れてしまったように感じられた。

（どうすれば…）

沙織は、床に座り込み、膝を抱えた。これからどうすればいいのか、全く分からなかった。夫に、このことを話すべきか。警察に、訴えるべきか。しかし、どちらも、現実の厳しさに打ち砕かれるような気がした。

（あの男は…私のことを、どうするつもりだったんだろう…）

「閲覧注意の○○映像」。その言葉が、頭の中でぐるぐると回る。自分が、誰かの欲望を満たすための、ただの「モノ」になってしまったのか。そんな考えが、沙織の心をさらに蝕んでいった。

窓の外は、まだ雨が降り続いている。街灯の光が、濡れた窓ガラスに歪んで映る。その光景は、まるで沙織の心の中の、荒れ果てた世界を映し出しているようだった。

沙織は、しばらくの間、ただ静かに座っていた。そして、ゆっくりと、呼吸を整えた。

（逃げられない…）

この現実から、目を背けることはできない。沙織は、立ち上がり、鏡を見た。そこに映っていたのは、顔色が悪く、目の下にクマができた、憔悴した自分だった。しかし、その瞳の奥に、微かな光が宿っているのを感じた。

（私は…負けない…）

沙織は、乾いた唇を舐めた。この恐怖に、屈するわけにはいかない。たとえ、これからどんな困難が待ち受けていようとも。

沙織は、ゆっくりと、スマートフォンを手に取った。画面を指でなぞり、連絡先を探す。まず、健一に、電話をするべきか。それとも、警察に、匿名で通報すべきか。

濡れたアスファルトに咲いた幻。それは、沙織の心に深く刻み込まれた、恐ろしい記憶となった。しかし、沙織は、その記憶を力に変え、立ち上がることを決意した。

雨は、まだ降り続いている。しかし、沙織の心の中では、静かに、しかし力強く、希望の光が灯り始めていた。それは、この夜の闇を切り裂く、一筋の光となるだろう。