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## 月光の下の約束

　梅雨の湿った空気が肌にまとわりつく夜だった。都会の喧騒から少し離れた、古びたビルの三階。控えめなネオンサインが、夜の帳に頼りなく揺れている。「黎明カウンセリング」。表札にはそうあった。看板は小さいが、その存在を知る者は、熱烈な渇望を抱く者だけだった。

　千夏は、齢三十三。都会で名の知れたデザイン事務所に勤め、地位も収入も確固たるものだった。しかし、プライベートは荒野だった。何度か恋愛は経験したが、結婚まで至った相手はいなかった。そして何より、千夏は「子どもだけ」が欲しかった。パートナーシップは望まず、ただ、生命の温もりだけを求める。そんな彼女にとって、社会はあまりにも無情だった。不妊治療は高額で、かつ、パートナーがいないと門戸が狭まることも少なくない。精子バンクも選択肢にはあったが、どこか虚しい。子どもは、愛情の証であって、単なる遺伝子の提供者から生まれるものではないと、千夏の心は抵抗していた。

　そんな折、インターネットの片隅で見つけたのが、この「黎明カウンセリング」だった。情報交換のフォーラムで、匿名で語られるその実態は、千夏が切望していたものと驚くほど合致していた。精子バンクではなく、性交による妊娠率の向上を目的としたカウンセリング。しかし、その方法は、一般的なそれとは異なると仄めかされていた。「オーガズムを介した女性ホルモンの活性化」。そして、直接的な精子の「注入」。それは、倫理的、あるいは道徳的な観点から多くの疑問を投げかけるものだったが、千夏にとっては、暗闇の中に差し込んだ一条の光に見えた。

　予約の日。千夏は、普段の洗練されたオフィススタイルとは全く違う、シンプルなワンピースに身を包んでいた。まるで、新しい自分を演じるための衣装のように。胸の高鳴りは、緊張からか、それとも期待からか、判別がつかなかった。

　受付は無人で、インターホンを押すと、静かな声が響いた。「どうぞ、中へ」。ドアが開くと、そこには予想とは異なる、静謐な空間が広がっていた。柔らかな照明、木のぬくもりを感じさせる内装。カウンセリングルームらしい落ち着いた雰囲気だった。

　現れたのは、白衣を着た女性だった。年齢は千夏より少し上だろうか。落ち着いた物腰の中に、確かな知性と包容力を感じさせる微笑みをたたえていた。「ようこそ、黎明カウンセリングへ。佐藤です。どうぞ、お掛けください」。

　千夏は指定されたソファに腰を下ろした。喉がカラカラに乾いていた。「あの…私は、子どもが欲しいんです。でも、パートナーはいなくて…。それに、結婚も考えてなくて。ただ、子どもだけを…」。言葉を選ぶように、千夏は自分の願いを伝えた。

　佐藤は静かに耳を傾け、そして穏やかに微笑んだ。「お気持ち、お察しいたします。現代社会では、様々な理由で、子どもを持つことを望む女性が増えています。しかし、その道のりは、決して平坦ではありません。当カウンセリングは、そのような女性たちのために、最善の方法を共に探すお手伝いをさせていただいております」。

　佐藤は、まず「黎明カウンセリング」の理念を説明した。それは、単なる性行為の提供ではない。女性の身体のリズムを理解し、排卵日を正確に予測すること。そして、その期間に、女性ホルモンの分泌を最大限に引き出すための心身の準備を行うこと。その上で、最も効率的な方法での「注入」を行うのだという。

　「具体的には、どういった…」千夏は口ごもった。

　佐藤は、千夏の手をそっと握った。その温かさは、母性に似たもので、千夏の緊張を少し和らげた。「それはですね、ご自身の身体と深く向き合っていただくことから始まります。日々の体調管理、食事、そして、ご自身の心の声を聞くこと。その上で、最も大切なのは、リラックスして、ご自身の身体が持つ本来の力を信じることです」。

　「でも、それは…」千夏は躊躇した。インターネットで読んだ情報では、もっと直接的な方法が示唆されていたからだ。

　佐藤は、千夏が何に躊躇しているのかを察したようだった。「もしかして、インターネットなどで、私たちの活動について何かご覧になりましたか？」。

　千夏はこくりと頷いた。

　「私たちの活動は、確かに一般的な医療機関とは異なります。しかし、それは、女性が、より自然で、より本能的な方法で、妊娠という神秘を体験してほしいと願っているからです。精子バンクのように、機械的に、あるいは匿名的に精子を提供するのではなく、より温かく、より生命の繋がりを感じられる方法を目指しています」。佐藤は言葉を選びながら説明した。「性交による妊娠率の向上という点では、確かに、直接的な行為を伴う場合もあります。しかし、それはあくまで、妊娠という目的を達成するための一つの手段です。そして、その行為を通して、女性自身が喜びを感じ、心身ともに満たされることも、妊娠への大切なステップだと考えています。女性が感じるオーガズムは、女性ホルモンを活発化させ、受精卵が着床しやすい環境を作り出すと言われています。私たちは、そのメカニズムを最大限に活用しようとしているのです」。

　千夏は佐藤の言葉に、今まで抱えていた漠然とした不安が、少しずつ解消されていくのを感じた。それは、単なる性行為の提供ではなく、妊娠という生命の営みを、女性の心と身体の健康を第一に考えたアプローチなのだと。

　数週間のカウンセリングと準備期間を経て、ついに千夏は「その日」を迎えることになった。佐藤から渡されたのは、数枚のカード。それは、排卵日予測のタイミングを示すもので、同時に、心構えを記したメッセージも添えられていた。「ご自身の身体を信じて。そして、この時間を大切にしてください」。

　指定された日。場所は、黎明カウンセリングが提携する、秘密の施設だった。静かな音楽が流れる、プライベートな空間。そこに、千夏は一人、身を横たえていた。

　現れたのは、佐藤ではなく、見知らぬ男性だった。服装は、千夏が想像していたような、無機質な医療従事者とは全く違う。柔らかな素材のシャツにスラックス。しかし、その瞳には、温かく、そして真剣な光が宿っていた。彼は、千夏に微笑みかけた。「本日はよろしくお願いいたします。〇〇（男性の名前）と申します」。

　千夏は、緊張しながらも、佐藤から事前に教えられていた通り、深呼吸をした。自分の身体を、そして、この奇妙な状況を受け入れるように。

　〇〇は、千夏の排卵日を正確に把握していた。そして、千夏がリラックスできるよう、静かに語りかけてきた。その声は落ち着いていて、千夏の心を穏やかに保ってくれた。彼の細やかな気遣いに、千夏は少しずつ身体の緊張を解いていった。

　そして、それは始まった。〇〇の指が、千夏の肌に触れる。それは、責めるような、奪うようなものではなく、慈しむような、優しさだった。千夏の身体は、まるで眠っていたかのように、その感触に反応し始めた。佐藤が言っていた通り、自身の身体が持つ「本来の力」が、静かに目覚めていくのを感じた。

　〇〇は、千夏の身体のリズムを丁寧に感じ取りながら、愛情を込めて行為を重ねた。その度に、千夏は今まで感じたことのないような、深い喜びを味わった。それは、性的な快楽だけではない。生命が芽生えることへの期待感、そして、自分の身体が持つ神秘への感動。千夏の身体からは、温かな女性ホルモンが溢れ出しているのが、まるで自分の細胞一つ一つを通して感じられるかのようだった。

　「あ…っ…」。千夏の口から、掠れた声が漏れた。〇〇は、その声に応えるかのように、さらに優しく、そして力強く、千夏を求めた。千夏の身体は、快楽の波に包まれ、その頂点に達した。その時、千夏は、妊娠への確かな期待を抱いた。精子に飢えた女性、という表現は、確かに的を射ているのかもしれない。しかし、それは単なる飢えではなく、生命への切なる渇望であり、その渇望を満たすための、本能的な歓びでもあった。

　行為が終わった後、〇〇は千夏を優しく抱きしめた。「大丈夫ですか？」。その声には、偽りのない気遣いが込められていた。千夏は、その温もりに包まれながら、静かに涙を流した。それは、悲しみではなく、感謝と、そして、これから始まるであろう未来への希望の涙だった。

　黎明カウンセリング。それは、社会の枠組みから外れた、しかし、多くの女性が抱える切なる願いに応えるための、秘密の場所だった。千夏は、この場所で、自分の人生に新たな光を見出した。月光の下で交わされた、静かで、しかし力強い約束のように、彼女の心には、希望の種が確かに蒔かれたのだ。この先の道のりはまだ分からない。それでも、千夏は、自分の身体を信じ、黎明カウンセリングが与えてくれたこの機会を、大切に、そして、前向きに受け止めていこうと決意したのだった。