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## 都会の迷子

新宿駅の雑踏は、まるで巨大な生き物のようにうねり、息づいていた。その中心で、私は一人、地図を片手に立ち尽くしていた。故郷の町では見慣れない、高層ビル群の隙間から覗く空は、どこか遠く、私にはあまりにも人工的だった。夫は仕事で先に来ていたが、私に「まずは落ち着いて、駅のインフォメーションで聞くといい」とだけ言い残し、連絡は途絶えたまま。不安と期待が入り混じった胸の鼓動が、耳元で大きく響いていた。

「あの、すみません」

不意にかけられた声に、私はびくりと肩を震わせた。振り返ると、そこに立っていたのは、都会的なスーツを着こなした、穏やかな笑顔の男性だった。

「道に迷われたようですが、何かお探しですか？」

その声は、あの雑踏の騒音をかき消すほど心地よかった。私は、言葉に詰まりながらも、故郷から持ってきた地図を差し出した。

「はい、あの、〇〇ホテルを探しているのですが…」

男性は地図を覗き込み、優しく微笑んだ。

「ああ、ここからだと少し歩きますね。もしよろしければ、ご案内しましょうか？」

「え、でも…」

見ず知らずの男性に、と一瞬ためらったが、このまま立ち尽くしていても何も始まらない。それに、彼の醸し出す穏やかな雰囲気は、私の不安を少しだけ和らげてくれた。

「ありがとうございます。助かります」

そう言って、私は男性について歩き出した。彼の名前は、健一さんだと名乗った。軽快なトークで、新宿の街の案内をしてくれる。私にとっては何もかもが新鮮で、刺激的だった。

「故郷からは、お一人で？」

健一さんが尋ねた。

「はい。夫が先にこちらに来ていて…」

「そうなんですね。奥様、きっと不安でしょう」

その言葉に、胸が締め付けられる。夫からの連絡がないのだ。

「少し、心配で…」

「わかります。でも、この街は慣れてしまえば、きっと楽しいですよ。もしよろしければ、一杯どうですか？少しだけ、息抜きに」

「え、でも、ホテルに…」

「大丈夫です。すぐ近くに、落ち着いた雰囲気のバーがありますから。それに、お話を聞くだけでも」

彼の言葉に、私は抗うことができなかった。不安な気持ちと、初めての都会での期待感。そして、彼の穏やかな瞳に、私は次第に心を許していった。

バーは、想像していたよりもずっと静かで、落ち着いた空間だった。窓からは、きらびやかな新宿の夜景が広がっている。グラスに注がれたカクテルは、一口飲むごとに、私の緊張を解きほぐしていった。

「奥様、本当に綺麗ですね」

健一さんが、私の目を見て言った。その視線に、なぜかドキドキした。

「いえ、そんな…」

「いや、本当に。都会には、こういう自然な美しさがあまりないんですよ」

彼の言葉は、私の心の奥底にあった、かすかな劣等感を掻き消してくれた。故郷の町では、私はただの「奥さん」だった。しかし、ここでは、まるで違う自分になれるような気がした。

「故郷では、どんなことをされていたんですか？」

健一さんの問いに、私は故郷での平凡な日常を語った。畑仕事、近所付き合い、そして夫との静かな暮らし。しかし、その話をしているうちに、自分の中に眠っていた、何かが目覚めようとしているのを感じた。

「そうなんですね。でも、奥様は、もっと色々な世界を見てみたいと思っていませんか？」

彼の言葉は、私の心の奥底に隠していた、漠然とした願望を的確に突いてきた。都会の華やかさ、刺激的な日常。それは、私にとって、まるで別世界だった。

「…そう、かもしれません」

ポツリと呟いた私に、健一さんは、さらに近づいてきた。彼の熱い視線が、私を射抜いた。

「少しだけ、この世界を覗いてみませんか？ほんの、少しだけ」

彼の指が、私の頬を優しく撫でた。その感触に、私は抗うことができなかった。夫のこと、故郷のこと、全てを忘れて、このまま彼に身を委ねてしまいたい衝動に駆られた。

「…ホテルに、戻らなくては…」

そう言いながらも、私の足は、健一さんの後について歩き出していた。それは、抗いがたい魅力に導かれるように。

ホテルの部屋は、薄暗く、間接照明の光が、二人を包み込んだ。健一さんの手が、私の首筋に触れた。その温かさに、私は息を呑んだ。

「奥様、本当に魅力的ですね」

彼の言葉に、私の心臓は早鐘を打った。故郷では決して感じたことのない、激しい感情が胸を駆け巡る。

「私…」

言葉にならなかった。ただ、彼の熱い吐息が、私の顔にかかる。その瞬間、私は、自分の中に眠っていた、もう一人の自分に気づいた。それは、都会の光に魅せられた、奔放な女。

健一さんの唇が、私の唇に触れた。それは、まるで魔法のように、私の抵抗を消し去った。そして、彼の温かい手に導かれるまま、私は、自分でも想像できなかった、激しい情熱の渦に巻き込まれていった。

その夜、私は、都会の夜景を背に、夫ではない男と、新しい自分を見つけた。それは、一瞬の出来事かもしれない。しかし、私にとって、それは、故郷の町では決して得られなかった、刺激的で、忘れられない体験だった。新宿の夜は、私を、そして私の秘めたる欲望を、容赦なく解き放ってくれたのだ。