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## 禁断の果実

真夜中の静寂を切り裂くように、スマホの着信音が響いた。鳴り響くたびに、桐島沙希（32歳）の心臓は冷たい氷に締め付けられるような感覚に襲われた。画面には「夫」と表示されている。しかし、その表示は、今や彼女にとって、まるで悪夢の始まりを告げる呪文のようだった。

「もしもし…」

絞り出すような声に、夫の冷たく響く声が重なった。

「どこだ。まだ帰ってこないのか。」

「え…えっと、友達と…少し飲んでて。」

嘘をつくたびに、喉がカラカラに乾いていく。本当は、自宅の寝室で、夫とは別の男の腕の中にいた。

夫は、出張で家を空けている。その不在を、彼女は「チャンス」と捉えた。もう何年も、夫婦としての関係は冷え切っていた。夫は仕事人間で、彼女に目を向けることさえしなくなった。寂しさ、虚しさ、そして抑えきれない欲望。それらが、彼女を「禁断の果実」へと誘った。

相手は、大学時代のサークル仲間、藤崎悠（34歳）。卒業以来、疎遠になっていたが、数ヶ月前に偶然再会した。彼は、独身で、自由奔放な生活を送っていた。再会した時の、あのギラギラした瞳。沙希の心に、眠っていた炎が再び灯るのを感じた。

「沙希、綺麗になったな。」

そう囁かれた言葉に、彼女は溺れそうになった。昔から、夫の「物」になってしまっていた自分。藤崎は、そんな彼女を「女」として見てくれた。

最初の夜は、まるで悪夢のようだった。罪悪感と背徳感に苛まれながらも、理性のタガが外れたように、藤崎に身を委ねた。彼の荒々しくも力強い喘ぎ声、そして、彼女の奥深くまで満たしていく感覚。それは、夫との間では決して味わえない、生々しい歓喜だった。

「ふふ…、沙希、最高だよ。」

藤崎の言葉に、彼女は初めて、自分自身が「生きて」いることを実感した。夫には見せたことのない、エロくて可愛い、そんな「あんなところ」や「こんなところ」を、彼はすべて独り占めにした。

それから、彼女は藤崎との逢瀬を重ねた。恋愛感情なんて、微塵もなかった。ただ、純粋な下心と、満たされない欲望を満たすための、刹那的な関係。昼も夜も、文字通り「ハメまくり」、そして「イキまくり」のSEX。それは、彼女にとって、日常の退屈さから解放される唯一の方法だった。

藤崎との時間は、まるで別世界だった。そこには、夫との冷え切った関係も、日常の重圧も存在しない。ただ、剥き出しの欲望と、それを満たす快楽だけがあった。彼女は、藤崎の腕の中で、自分自身が「モノ」ではなく、誰かに求められる「女」であることを確認していた。

「もっと、もっと…」

藤崎に喘ぎながら、沙希はそう願った。この快楽が、永遠に続けばいいのに、と。しかし、現実は甘くはない。夫の帰宅日が近づき、彼女の心には、冷たい現実が忍び寄っていた。

ある日、藤崎とホテルで過ごしていると、沙希のスマホに、夫からのメッセージが届いた。「もうすぐ家に着く」。

「…ごめん、もう行かなきゃ。」

藤崎は、名残惜しそうな顔で、彼女の髪を撫でた。

「また、すぐに会おうな。」

その言葉に、沙希は虚しさを感じた。また、日常に戻らなければならない。この、夢のような時間は、終わってしまう。

家に戻ると、夫はいつものように、彼女に無関心だった。仕事の疲れを癒すように、ソファでくつろいでいる。沙希は、夫の隣に座りながら、心の中で藤崎との時間を反芻していた。彼の温かい体温、荒々しい息遣い、そして、彼女のすべてを受け入れてくれるような眼差し。

「…ねえ、あなた。」

「ん？」

「私…最近、ちょっと…」

何を言おうとしたのか、彼女自身にも分からなかった。夫に、自分の「禁断の果実」について話すことなど、できるはずもない。

「…なんでもない。」

虚しい沈黙が、二人の間に流れた。

その夜、沙希は夫の隣で眠りについた。しかし、彼女の意識は、藤崎との夜に囚われていた。あの、鮮烈な快楽、そして、解放感。それは、彼女の心に、深く刻み込まれていた。

「あなたたちの周りの人も、もしかしたら浮気しているかも…」

藤崎が、冗談めかして言った言葉が、頭の中でリフレインする。自分のように、日常に退屈し、孤独を感じている人間は、他にもたくさんいるのかもしれない。そして、彼らもまた、禁断の果実を求めているのかもしれない。

沙希は、窓の外に広がる夜空を見上げた。月明かりが、彼女の顔を淡く照らしている。このまま、夫との冷え切った関係を続け、虚無感に苛まれながら生きていくのか。それとも、もう一度、あの禁断の果実を求め、刹那的な快楽に身を委ねるのか。

彼女の心は、二つの道に引き裂かれていた。そして、どちらの道を選んだとしても、その先に待っているのは、決して楽な道ではないことを、彼女は本能的に理解していた。

それでも、彼女の脳裏には、藤崎の顔が浮かび上がる。あの、ギラギラとした瞳と、自分を「女」として見てくれた、あの眼差し。

「…もう一度、あの味を…」

沙希は、静かに呟いた。その声は、夜の闇に吸い込まれていくように、か細かった。禁断の果実の甘美な誘惑は、彼女の心を、すでに深く蝕んでいた。そして、彼女は、その誘惑から逃れることが、もうできないことを知っていた。

翌朝、沙希は、夫よりも早く目を覚ました。いつものように、冷たい朝食を準備しながら、彼女の心は、もう藤崎との次の約束に飛んでいた。夫には見せない、あの「エロくて可愛い」自分を、再び独り占めにするために。恋愛感情なんて、なくてもいい。ただ、この、刹那的な、しかし強烈な「生」を感じさせてくれる瞬間だけを、彼女は求めていた。

日差しが差し込み、部屋が明るくなるにつれて、沙希の表情は、どこか晴れやかになっていった。まるで、秘密の甘い計画を立てる少女のように。彼女は、夫の顔を見ることなく、静かに家を出た。その足取りは、まるで、獲物を追う捕食者のように、力強く、そして決意に満ちていた。

彼女の心は、もう、止まることを知らない。禁断の果実を追い求め、彼女は、さらに深い闇へと、その身を投じていくのだ。そして、その先に何が待っているのか、それは、神のみぞ知る、ということだった。