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## 満月を待つ夜

「おばさん、本当にありがとう。」

テーブルを挟んで向かいに座る健一は、心底嬉しそうにそう言った。向かいに座るのは、千歳（ちとせ）。今年で48歳になる彼女は、健一にとって、まるで母親のような、いや、それ以上に温かく、そして少しだけ甘酸っぱい存在だった。

健一はまだ20代後半。大学時代に偶然知り合った千歳は、当時はまだ若々しく、その眼差しにはどこか少女のような無邪気さが残っていた。しかし、年月は千歳の顔に細やかな皺を刻み、その髪には銀の糸を織り交ぜた。だが、その変化は千歳を老いさせたのではなく、むしろ深みと落ち着きを与えていた。特に、微笑む度に現れる目尻の皺は、彼女が人生の多くの喜びと悲しみを経験してきた証のように見え、健一はなぜか惹かれた。

二人の関係は、いつからか友人という枠を超えていた。千歳は、仕事で疲れた健一の愚痴を聞き、時には叱咤激励し、時にはそっと寄り添った。彼女の淹れるコーヒーはいつも温かく、その手作りのお菓子は格別だった。健一は、そんな千歳との時間を何よりも大切にしていた。

今夜は、健一の誕生日。千歳が、少しだけ奮発して予約したフレンチレストランでのディナーだった。普段は派手な装いはしない千歳も、今夜は落ち着いたワインレッドのワンピースに身を包み、控えめなパールのネックレスをしていた。それが、健一の目にとても美しく映った。

「そんな、お礼なんて。健一君が喜んでくれるのが一番嬉しいわ。」

千歳は、健一の言葉に照れたように微笑んだ。その笑顔は、健一が初めて千歳と会った頃と変わらず、純粋で温かい。

「でも、千歳さんのおかげで、今の僕があるんです。本当に感謝してます。」

健一は、グラスに残ったワインをゆっくりと飲み干した。この数年、彼は仕事で大きな挫折を経験し、人生の目標を見失いかけていた。そんな時、いつも傍で支えてくれたのは千歳だった。彼女の温かい言葉と、揺るぎない存在感に、健一は何度となく救われてきた。

「健一君は、これからもきっと、たくさんの経験をして、もっともっと素敵な人になるわ。」

千歳は、健一の目をまっすぐに見つめた。その眼差しには、確信めいたものが宿っていた。

「千歳さん…」

健一は、千歳の名前を呟いた。言葉にならない感情が、胸の中で渦巻いていた。それは、友人への感謝、尊敬、そして、それ以上の何か。

「もう、ご馳走様でした。お腹いっぱい。」

健一は、そう言って立ち上がった。千歳も、それに倣って椅子から立ち上がる。

「帰りましょうか。」

レストランを出ると、夜空には満月が輝いていた。街灯の明かりに照らされた千歳の横顔が、いつもより一層輝いて見える。

「今夜は、本当にありがとう。最高の誕生日でした。」

健一は、千歳の顔を覗き込むように言った。千歳は、何も言わずに、ただ微笑んだ。

「あのね、千歳さん。」

健一は、意を決して千歳の腕にそっと手を伸ばした。千歳は、健一の手に、そっと自分の手を重ねた。その指先は、驚くほど温かく、そして滑らかだった。

「僕、千歳さんのことが…」

健一が言葉を続けようとしたその時、千歳が健一の言葉を遮った。

「健一君、私の家、寄ってかない？」

その誘いは、あまりにも自然で、そして、どこか甘く響いた。健一は、千歳の言葉に、胸が高鳴るのを感じた。

千歳の家は、都会の喧騒から少し離れた、静かな住宅街にあった。こぢんまりとした一軒家で、庭には季節の花々が咲いていた。健一は、何度か訪れたことがあったが、今夜は、いつもとは違う空気が流れているように感じた。

リビングに通された健一は、千歳に促されるまま、ソファに座った。千歳は、キッチンへ行き、温かいミルクと、手作りのクッキーを持って戻ってきた。

「どうぞ。」

千歳は、健一の前にミルクの入ったマグカップとクッキーの皿を置いた。彼女は、健一の隣に座り、静かにミルクを啜った。

「千歳さん、いつも思うんですけど、千歳さんの淹れるミルクって、なんでこんなに美味しいんですか？」

健一は、ミルクを一口含んで言った。千歳は、ふふ、と小さく笑った。

「魔法の呪文でも唱えてるのかしら。」

そう言って、千歳は健一の顔を優しく見つめた。その瞳は、まるで夜空の星のようにキラキラと輝いていた。

「魔法の呪文…ですか。」

健一は、千歳の瞳を見つめ返した。そして、ゆっくりと、彼女の顔に手を伸ばした。

「千歳さん、僕、本当に、千歳さんのことが…」

今度こそ、健一は言葉を続けようとした。しかし、千歳は、健一の手をそっと掴み、自分の頬に当てた。

「健一君、もう、無理しないで。」

千歳の声は、労わるように、そして、少しだけ寂しそうに響いた。

「無理なんて…してませんよ。」

健一は、千歳の言葉に、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。千歳は、健一が抱えているであろう、孤独や不安、そして、人知れぬ苦悩を、まるで自分のことのように理解しているかのようだった。

「健一君は、いつも頑張りすぎてる。もっと、肩の力を抜いていいのよ。」

千歳は、健一の手を握りしめた。その手は、健一の想像していたよりも、ずっと温かかった。

「千歳さんの言う通り、僕、頑張りすぎなのかもしれません。」

健一は、千歳の温かい手に、自分の手を重ねた。そして、ゆっくりと、千歳の顔を覗き込んだ。

「千歳さん、僕、千歳さんのことが、好きです。」

その言葉は、もはや隠すことのできない、率直な想いだった。千歳は、健一の告白に、驚いたような顔をしたが、すぐに、穏やかな微笑みを浮かべた。

「健一君…」

千歳は、健一の名前を、慈しむように呼んだ。そして、健一の頬に、そっと自分の手を添えた。

「私も、健一君のこと、大切に思ってるわ。」

その言葉に、健一は、心臓が跳ね上がるような高揚感を覚えた。千歳との距離が、急速に縮まっていくのを感じた。

夜が更けるにつれて、二人の間には、言葉にならない、けれど確かな温かい空気が満ちていった。千歳は、健一の隣に座り、彼の肩にそっと頭を預けた。健一は、千歳の柔らかな髪に、そっと手を伸ばした。

「千歳さん、あのね。」

健一は、千歳の耳元で囁いた。

「今日、僕、千歳さんにお返しがしたいんです。」

千歳は、顔を上げ、健一の目を見つめた。その瞳には、期待と、少しの戸惑いが混ざっていた。

「お返し…？」

「はい。僕が、千歳さんからたくさん受け取ったもの。それを、僕からも…」

健一は、言葉を選びながら、千歳に自分の想いを伝えた。千歳は、健一の言葉を、静かに聞いていた。

「健一君…」

千歳は、健一の頬に、もう一度手を添えた。その指先は、健一の肌に、優しく触れた。

「私にできることなら、なんでも言って…」

千歳の言葉は、まるで、健一を包み込むような、温かい響きを持っていた。健一は、千歳の言葉に、胸がいっぱいになるのを感じた。

その夜、満月は、二人の静かな愛の誓いを、静かに見守っていた。千歳は、健一の温かい抱擁の中で、まるで長年探し求めていた安らぎを見つけたかのように、静かに目を閉じた。健一は、千歳の髪を優しく撫でながら、彼女の温もりを全身で感じていた。それは、年齢や性別といった境界線を越えた、純粋で、そして、何よりも温かい愛の形だった。