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## 第一話　残された家具と、残された時間

「この物件、気に入りました。もう一度、ゆっくり見ていいですか？」

30代後半の美咲は、不動産屋の女性担当者、遠藤沙織にそう頼み込んだ。広々としたリビング、日当たりの良いキッチン、そして何より、静かな住宅街に建つ落ち着いた佇まいが気に入っていた。しかし、沙織の表情は少し戸惑っているように見えた。

「いえ、もちろん…ですが、今日はもう閉館時間ですし…」

「お願いです！どうしても今日中に決めたいんです。ちょっと…事情があって…」

美咲は、目を潤ませながら懇願した。本当は、今日中にこの家を決めなければいけない明確な理由などなかった。ただ、後回しにしたくない、今日中に終わらせてしまいたい、という焦燥感に駆られていたのだ。その焦燥感の根源は、今夜会う約束をしている男、健太の存在だった。

沙織は少し考え込んだ後、渋々承諾してくれた。鍵を受け取り、美咲と沙織は再び物件へと入った。

物件は、前の住人が引っ越したばかりらしく、家具がいくつか残されていた。大型のソファ、古びた食器棚、そして、寝室には、大きなベッドがそのまま置かれていた。埃っぽく、少し陰気な雰囲気だが、美咲は気にも留めなかった。彼女の視線は、すでに今夜の予定に釘付けだった。

沙織は、プロとして淡々と物件の説明をしていたが、美咲は彼女の言葉をろくに聞いていなかった。彼女の頭の中は、健太との逢瀬でいっぱいだった。飲み屋で知り合った健太。彼の、優しく包み込むような眼差しと、男らしい体格に、美咲は惹かれずにはいられなかった。夫の出張は、この逢瀬を計画する絶好の機会だった。

「…あの、すみません。トイレを借りたいのですが…」

美咲は、突然沙織にそう告げた。そして、トイレから戻ってきた時、彼女の目には、少し慌てた表情が浮かんでいた。

「…実は、夫が今日、出張から帰ってくるんです…」

美咲は、ついに沙織に真実を打ち明けた。夫は、明日帰ってくる予定だったが、1日早く帰ってきたのだ。今日を逃せば、次の逢瀬はいつになるか分からない。焦燥感は、一気に増幅していった。

沙織は、美咲の事情を理解した上で、静かに聞いていた。女性としての共感と、プロとしての冷静さを保ちながら。

「…でも、まだ健太さんと会う時間はありますよ」沙織は、少し考えてから言った。「私は、この物件の近所の喫茶店で、少し時間をつぶしましょう。その間に、ご主人に電話して、少し遅くなるとでも言い訳をすれば…」

美咲は、沙織の言葉に救われた思いだった。沙織の提案を受け入れ、二人は急いで物件を出て、近くの喫茶店へと向かった。

喫茶店で、美咲は夫に電話をかけ、遅くなると伝えた。そして、沙織は、自分の携帯で健太に連絡を取り、予定時刻を少し遅らせるように伝えた。

沙織の機転と冷静な行動のおかげで、美咲は、何とか健太との逢瀬を保つことができた。しかし、その心の奥底には、罪悪感と、拭い切れない不安が残り続けていた。


## 第二話　壊れた均衡と、訪れた選択

健太との逢瀬を終え、美咲は疲労困憊の体で帰宅した。夫は、既に寝ていた。しかし、部屋の空気は、明らかに変わっていた。いつもとは違う、張り詰めた静寂が、美咲を包み込んでいた。

翌日、美咲は夫の様子を伺うように過ごした。夫は、普段通りに仕事に行き、夜には帰宅した。しかし、彼の視線は、いつもより冷たかった。美咲は、夫が何かを察しているのではないかと、強い不安を感じ始めた。

数日後、夫は美咲に言った。「あの物件、契約しないんだって？」

美咲は、言葉を失った。沙織が、物件の契約をキャンセルしたのだ。沙織は、美咲の秘密を察知していたのか、それとも、単に契約が成立しなかったのか、真相は分からなかった。

「…うん、なんか…気に入らなかったから」

美咲は、震える声で答えた。嘘だった。あの家は、本当に気に入っていた。

その夜、夫は美咲に静かに話しかけてきた。「あの日、君が急いで家を出て行った後、沙織さんから電話があったんだ。君が急いでいた理由を聞いたんだ…」

美咲は、ついに夫に全てを打ち明けた。健太との関係、そして、沙織の助けを借りて逢瀬を成立させたこと、全てを。

夫は、激昂することも、泣き叫ぶこともなかった。ただ、静かに美咲の話を聞いていた。そして、話し終えた美咲に、夫は言った。

「…僕は、君を愛している。でも、君の行動は、許せない。」

夫の言葉は、静かで、しかし、重く美咲の心を打ち砕いた。その言葉は、怒りや悲しみではなく、深い失望を含んでいた。

美咲は、涙が止まらなかった。夫の言葉は、自分がどれほど大きな過ちを犯したかを改めて突きつけた。自分の欲望に突き動かされ、夫や沙織を巻き込み、大切なものを失いかけていることに気づいた。

その日から、美咲の人生は大きく変わった。健太とは連絡を絶ち、夫との関係修復に努めた。簡単ではなかった。しかし、夫の静かな愛情、そして、沙織の誠実な対応が、美咲を支えた。

沙織は、美咲にこう言った。「あの時、私は、あなたを助けたかった。でも、同時に、あなたの選択に責任を持たせる必要があったと思っています。幸せになる道は、あなた自身が決めることですから。」

美咲は、沙織の言葉に感謝した。そして、自分の過ちから学び、本当に大切なものを見つめ直す決意をした。

あの日、沙織の協力なしには、健太との逢瀬は成立しなかった。しかし、その選択は、結局は、美咲自身を破滅へと導きかねない危険な綱渡りだったのだ。美咲は、自分の行いを深く反省し、夫と真摯に向き合うことで、壊れた均衡を修復しようと努力を始めた。それは、長く険しい道のりとなるだろうが、美咲は、一歩ずつ、前を向いて歩いていくことを決めた。  あの残された家具のある家、そして、沙織との出会いは、美咲の人生における大きな転換点となった。それは、幸福への道標ではなく、過ちから学ぶための、厳しい現実の始まりだった。