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## 蜜室の囁き

ビジネスホテルの12階。窓の外には、眠らない街の明かりが宝石のように散りばめられていた。部屋の中央には、ふかふかのマッサージベッドが鎮座し、その周囲にはアロマオイルの甘く濃厚な香りが漂っている。部屋の隅に設置された小さなカメラは、まるで息を潜めるように、そのすべてを静かに捉えていた。

「本日は、〇〇様のご予約を承っております、エステティシャンの佐藤と申します。どうぞよろしくお願いいたします。」

ドアが開くと同時に、柔らかな声が響いた。現れたのは、ふんわりとしたボブヘアに、清潔感のある白衣を纏った女性だった。彼女の名前は佐藤優子、30歳。夫との間に子供はいない。日頃から、家事と育児に追われる友人たちの姿を見ていると、自分は恵まれている方だと自覚していた。しかし、それはあくまで表向きの話。結婚5年目。夫との関係は、残念ながら「レス」という言葉で片付けられるほど、冷え切っていた。

「おお、これはこれは。期待以上の美人さんで、感激ですな。」

現れたのは、優子の予約客である山田哲也、45歳。少しばかりお腹が出ているが、身なりはきちんとしている。しかし、その瞳には、優子の美貌を値踏みするような、下卑た光が宿っていた。山田は、出張先での寂しさを紛らわすかのように、こうしたサービスを頻繁に利用しているという。そして、その目的は、決して「癒し」だけではなかった。

優子は、客がどのような意図でこのサービスを利用しているのか、ある程度は理解していた。だからこそ、常に冷静沈着な対応を心がけていた。しかし、山田の視線に、いつもとは違う、より執拗なものを感じ、かすかに胸騒ぎを覚えた。

「まずは、お着替えをお願いいたします。」

優子が促すと、山田はニヤリと笑った。

「いやいや、こんなに綺麗なあなたを前にして、すぐに着替えるのももったいない。まずは、もう少しお話でもしましょうや。」

山田は、ベッドの横にあるソファに腰を下ろし、優子に手招きした。優子は、内心の動揺を悟られないよう、努めて穏やかな表情を保った。

「どのような施術をご希望でしょうか？」

「施術？いや、そんな堅苦しいことはいいんだよ。君みたいな、綺麗な女性と、こうして二人きりになれるだけで、十分だよ。」

山田は、優子の腕にそっと触れようとした。優子は、すっと腕を引いた。

「お客様、施術はベッドの上で…」

「ベッド？ああ、ベッドね。でも、その前に、君のその綺麗な肌を、もっと近くで見てみたいんだ。」

山田は、ソファから立ち上がり、優子にゆっくりと近づいてきた。その顔は、期待と欲望で紅潮していた。優子の心臓は、早鐘のように打ち始めた。この男は、明らかに「そういうこと」を求めている。そして、それは、彼女が日頃から恐れていた事態だった。

「お客様、このサービスは、あくまでリラクゼーションを目的としております。」

「リラクゼーション？ふふ、君のその甘い香りで、俺はもう十分リラックスできてるよ。ねえ、君は、旦那さんと、ちゃんとそういうこと、してるのかい？」

山田の言葉に、優子は思わず息を呑んだ。夫とのレス。それは、彼女の心の奥底に沈む、最も触れられたくない部分だった。

「それは、お客様とは関係ございません。」

優子は、努めて毅然とした態度で答えた。しかし、山田は、その動揺を見逃さなかった。

「ほう？レスか？それは大変だね。俺なんか、毎晩のように…」

山田は、卑猥な笑みを浮かべながら、自身の「充実した」性生活について語り始めた。優子は、その言葉を聞きながら、自分の心の中に、黒い影が忍び寄ってくるのを感じていた。夫への失望、そして、自分自身への虚しさ。それらが、山田の言葉によって、さらに増幅されていくようだった。

「もう、我慢できないな。」

山田は、優子の肩に手をかけ、強引に引き寄せた。優子は、抵抗しようとしたが、山田の力は、予想以上に強かった。

「離してください！」

「離すもんか。こんなに綺麗な君を、逃すわけないだろう？」

山田は、優子の顔に迫り、その唇に触れようとした。優子の目から、抑えていた涙が、とめどなく溢れ出した。それは、恐怖からくる涙だった。しかし、同時に、長年溜め込んでいた、夫への失望や、自分自身への情けなさからくる涙でもあった。

その瞬間、優子は、ある決意をした。このまま、この男に屈するわけにはいかない。自分は、こんなことで、汚されてはいけない。

「お客様…」

優子は、震える声で山田に語りかけた。

「私にも、辛いことがあるんです。夫との関係が、うまくいってなくて…」

優子の言葉に、山田は一瞬、動きを止めた。その瞳に、かすかな憐憫の色が浮かんだ。優子は、その隙を逃さなかった。

「だから…もし、本当に私を癒してくれるのなら…」

優子は、山田の胸にそっと手を当てた。その指先から、温かい熱が伝わってくる。

「…私を、抱いてください。」

山田は、驚きに目を見開いた。優子は、さらに言葉を続けた。

「ただし、それは…私に、本当の安らぎを与えてくれる、あなただからこそ、できることだと信じています。」

優子の言葉は、山田の心の奥底に、静かに響いた。彼女の瞳には、恐怖ではなく、かすかな希望の光が宿っていた。そして、その言葉には、純粋な「癒し」を求める、切実な響きがあった。

山田は、優子の瞳をじっと見つめた。そこで彼は、ただの「客」としてではなく、一人の「人間」としての優子を見た。そして、彼女の言葉の裏にある、深い孤独と、それでも失わない人間らしさに、心を動かされた。

「…わかったよ。」

山田は、静かに優子の肩から手を離した。そして、ソファに腰を下ろし、優子に目配せをした。

「君の、その勇気ある言葉に、俺は、男として、応えたいと思った。」

優子は、安堵のため息をついた。彼女は、知っていた。この夜、自分は、ある意味で、自分自身との戦いに勝利したのだと。

カメラは、そのすべてを静かに記録していた。映し出されていたのは、性的な欲望だけではない。そこには、人間の持つ孤独、そして、それでも失わない尊厳が、あった。

この密室で起こった出来事は、優子にとって、新たな一歩を踏み出すための、静かな覚醒となったのかもしれない。そして、山田にとっても、それは、単なる「サービス」以上の、忘れられない一夜となったであろう。窓の外の街の明かりは、変わらず輝き続けていた。