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## 抜け殻の夜

「ああ、また今日も終わった…」

終業のチャイムが鳴り響くオフィスで、田中は盛大にため息をついた。目の前には、未処理の書類が山のように積み上がっている。正直、仕事の内容自体は嫌いではない。システムエンジニアという仕事は、論理と創造性が求められる、ある意味で芸術に近いものだとさえ思っている。しかし、今の田中にとっては、それすらも無味乾燥な作業でしかなかった。

原因は明らかだ。田中は、同じ部署の先輩社員、山本美咲に片思いをしている。才色兼備という言葉が具現化したような女性で、仕事は完璧にこなし、誰に対しても優しく、それでいてどこか近づきがたいオーラを放っている。田中は、何度か話しかけたことはあるが、いつも当たり障りのない会話で終わってしまう。まるで、見えない壁が立ちはだかっているかのようだった。

そんなある日、田中は大学時代の友人、亮太から合コンに誘われた。最初は乗り気ではなかったが、亮太が「マジで可愛い子来るから！絶対後悔させないって！」とあまりにも強引に誘うので、根負けして参加することにした。

合コン当日、指定された居酒屋に入ると、すでに亮太はテーブル席で盛り上がっていた。女性陣は３人で、確かに亮太の言う通り、皆、美人だった。田中は、緊張しながらも挨拶を交わし、空いている席に座った。

亮太が場を盛り上げ、自己紹介や趣味の話で会話が弾んだ。その中で、田中の隣に座った女性が、妙に気になる存在だった。名前は、真由美。落ち着いた雰囲気で、少しミステリアスな微笑みを湛えている。歳は田中よりも少し上に見えた。

「田中さんは、どんなお仕事されてるんですか？」

真由美が、優しい声で話しかけてきた。

「システムエンジニアです。会社のシステムを開発したり、保守したり…」

田中は、少し照れながら答えた。真由美は、興味深そうに頷いた。

「へえ、すごい。私、そういうの全然分からないから尊敬しちゃう」

真由美の言葉に、田中は少しだけ勇気づけられた。今まで、女性に仕事の内容を褒められたことはほとんどなかったからだ。

合コンは、その後も順調に進んだ。お酒も入り、場はさらに盛り上がりを見せる。亮太は、積極的に女性陣を口説き、連絡先を交換していた。田中は、少し離れた場所から、その様子を眺めていた。

そんな田中を見て、真由美が心配そうに声をかけた。

「田中さん、あまり飲んでないですね。何かあったんですか？」

「いや、別に…ただ、こういう場はあまり慣れてなくて」

田中は、正直に答えた。真由美は、優しく微笑んだ。

「無理しなくていいんですよ。私も、実はあまり得意じゃなくて。でも、せっかくこうして出会えたんだから、少しでも楽しんでいきましょう」

真由美の言葉に、田中は心が軽くなるのを感じた。それから、二人は少しずつ会話をするようになった。真由美は、会社員で、結婚していること、趣味は読書や映画鑑賞であることなどを教えてくれた。

話しているうちに、田中は真由美に惹かれている自分に気づいた。彼女の落ち着いた雰囲気、優しい言葉遣い、そして、時折見せる寂しげな表情…。その全てが、田中の心を捉えて離さなかった。

合コンが終わり、店の外に出ると、亮太が田中に声をかけてきた。

「どうだった？楽しかった？」

「ああ、まあまあ…」

田中は、曖昧な返事をした。亮太は、ニヤニヤしながら言った。

「真由美さんと、結構話してたみたいじゃん。連絡先交換した？」

「いや、してないよ」

田中は、首を横に振った。亮太は、呆れたように言った。

「もったいない！あんな美人、滅多にいないぞ。既婚者だけど…」

亮太の言葉に、田中は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。既婚者…。その言葉が、田中の頭の中で何度も繰り返された。

数日後、田中は、偶然にも真由美と会社の近くのカフェで再会した。真由美は、一人でコーヒーを飲んでいた。

「あっ、田中さん。こんにちは」

真由美は、笑顔で挨拶をした。田中は、少し戸惑いながらも、隣の席に座った。

「こんにちは。偶然ですね」

「ええ、本当に。田中さんも、ここでよくコーヒーを飲むんですか？」

「たまに、気分転換に」

二人は、しばらくの間、世間話をした。その中で、田中は、勇気を振り絞って真由美に話しかけた。

「あの…真由美さん。もし、差し支えなければ、今度、ご飯でもご一緒しませんか？」

真由美は、少し驚いたような表情を浮かべた。そして、しばらくの間、考え込んだ。

「…田中さんの気持ちは、嬉しいです。でも、私は既婚者ですし…」

真由美の言葉に、田中は覚悟していたとはいえ、やはり落胆した。

「…そうですよね。すみません、無理なお願いをして」

田中は、肩を落とした。真由美は、申し訳なさそうな表情で言った。

「でも…もし、友達としてなら、いつでもお付き合いしますよ」

真由美の言葉に、田中は少しだけ希望を見出した。友達としてなら…。それでも、彼女と繋がっていられるなら、それでいいのかもしれない。

それから、田中と真由美は、時々、仕事終わりに食事に行ったり、映画を観に行ったりするようになった。二人は、互いの悩みや喜びを分かち合い、徐々に心の距離を縮めていった。

しかし、田中は、いつまでも友達という関係に満足できるはずもなかった。真由美への想いは、日増しに募っていった。

ある夜、田中は、真由美を食事に誘った。店は、少しおしゃれな雰囲気のイタリアンレストランだった。料理は美味しく、ワインも進み、二人はいつも以上に饒舌に会話を楽しんだ。

食事を終え、店の外に出ると、真由美が少し酔っ払っていることに気づいた。

「真由美さん、大丈夫ですか？少し酔ってますよね？」

「ええ、少しだけ。でも、大丈夫ですよ」

真由美は、少し頬を赤らめながら答えた。田中は、タクシーを呼び、真由美を自宅まで送ることにした。

タクシーの中で、真由美は、窓の外をぼんやりと眺めていた。そして、突然、ぽつりと呟いた。

「私…寂しいんです」

田中の心臓が、大きく跳ね上がった。真由美の言葉は、田中の胸に突き刺さった。

「…何かあったんですか？」

田中は、心配そうに尋ねた。真由美は、涙をこぼしながら、話し始めた。

「夫とは、もう何年もセックスレスなんです。会話もほとんどないし、まるで空気みたいな存在…」

真由美の言葉に、田中は、言葉を失った。彼女が抱えている孤独は、想像以上に深かった。

タクシーは、真由美の自宅マンションの前で停車した。真由美は、田中の方を向き、涙ながらに言った。

「田中さん…私…」

その時、田中は、自分の心が決まっていることに気づいた。彼は、真由美を抱きしめ、優しくキスをした。

真由美は、抵抗することなく、田中のキスを受け入れた。二人のキスは、次第に激しさを増していった。

そして、二人は、そのまま真由美の部屋へと向かった。

その夜、田中は、真由美と一夜を共にした。

翌朝、田中は、複雑な気持ちで目を覚ました。彼は、自分がしてしまったことの意味を、まだ理解できていなかった。

真由美は、すやすやと眠っていた。田中は、そっと真由美の寝顔を見つめた。彼女の顔には、昨夜の涙の跡が残っていた。

田中は、真由美の髪を優しく撫でた。そして、そっと部屋を後にした。

その日から、田中と真由美の関係は、大きく変わった。二人は、秘密裏に逢瀬を重ねるようになった。

しかし、田中は、いつも罪悪感に苛まれていた。彼は、真由美の夫を裏切っているという事実に、耐えられなかった。

そして、ある日、田中は、真由美に別れを告げた。

「真由美さん…ごめんなさい。もう、会うのはやめましょう」

真由美は、涙を流しながら、田中の言葉を受け入れた。

「…分かってた。いつか、こうなるだろうって」

二人は、互いに別れを告げ、それぞれの道へと歩き出した。

田中は、その後も、山本美咲への想いを断ち切れずにいた。しかし、真由美との一件以来、女性との関係に臆病になっていた。

結局、田中は、誰とも付き合うことなく、独身のまま歳を重ねていった。

あの夜、手に入れたはずの幸福は、今となっては、ただの苦い記憶として、田中の心に深く刻まれているだけだった。彼は、時折、あの時の選択が正しかったのか、自問自答する。しかし、答えは、いつまでも見つからない。