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## 村祭りの灯火（ともしび）

夏の終わりを告げる、名残惜しい熱気がまだ町に滞留していた。坂道を登りきった高台にある、静かな集落。赤や黄色に彩られた提灯が、夕暮れの空に揺れている。年に一度の村祭り。子供たちの歓声と、屋台から漂う甘い香りが、人々の心を浮き立たせていた。

「お父さん、見て！僕、上手く釣れたよ！」

息子の健太は、興奮した声で空き缶に的を狙って輪ゴムを飛ばす的屋の前で、得意げに父に話しかけてきた。健太は小学校に上がる前の、まだ幼さの残る男の子だ。祭りが大好きで、この日をどれだけ心待ちにしていたか。父親の拓也は、そんな息子の成長を嬉しそうに見守っていた。

「おお、すごいな健太！やるじゃないか！」

拓也は健太の頭を撫で、その小さな肩を叩いて労った。祭りの夜は、いつもこうして家族の温かい笑顔に包まれる。しかし、その温かさが、これから訪れる冷たい現実に、より一層の陰影を与えることになるのを、この時の拓也は知る由もなかった。

屋台を巡り、綿菓子を食べ、金魚すくいにも興じ、健太は祭りの喧騒の中を駆け回っていた。夜も更け、提灯の灯りが濃さを増す頃、祭りのクライマックスである盆踊りが始まった。大人たちが輪になって踊る中、子供たちはその周りを跳ね回っている。

「母ちゃん、もっと速く回ってー！」

健太は、母の陽子に手を引かれ、嬉しそうに笑いながら踊っていた。陽子は、健太の元気な姿に目を細め、優しく微笑み返した。祭りの賑わいの中、二人の間には、母子の確かな絆が息づいていた。

その時だった。

「うわっ！」

突然、健太の悲鳴が響いた。輪になって踊っていた大人たちの足元で、誰かが転んだのだ。その拍子に、健太がバランスを崩し、地面に倒れ込んでしまった。

「健太！」

陽子が駆け寄った。拓也も慌てて駆けつける。健太は、泣きそうな顔で地面に座り込んでいた。

「どうしたの？大丈夫？」

陽子が優しく声をかける。健太は、顔を上げ、泣きそうな顔で陽子を見つめた。

「お、お腹…痛い…」

陽子は、健太の腹部をそっと触った。硬くはない。しかし、健太は腹部を抱え込むようにして、さらに顔を歪めた。

「どこが痛いの？お腹？」

「う、うん…あと…そこも…」

健太は、言葉を詰まらせながら、太ももの内側あたりを指差した。陽子の顔に、不安の色が浮かんだ。

「大丈夫？ちょっと、お父さんと一緒に、お家に戻ろうね」

祭りの賑わいから離れ、家路につく間も、健太は時折、うめき声を漏らしていた。拓也は、健太を抱きかかえ、心配そうに陽子に顔を向けた。

「大丈夫だろうか…」

「…少し、様子を見ましょう」

家に着くと、陽子は健太を寝かせ、患部を優しく調べた。祭りの人混みで、何かにぶつけてしまったのだろうか。腹部や太ももの内側、そして、陽子がそっと確認した息子の急所。そこには、転んだ拍子に、地面に露出していた石のようなものに、擦りむいたような、赤く腫れ上がった傷ができていた。

「…痛い…」

健太が、その部分を指差しながら、小さく呻いた。陽子の胸が締め付けられるような痛みに襲われた。祭りの楽しい思い出が、一瞬にして、息子の痛みに変わってしまった。

「健太、ごめんね…」

陽子の声が震える。拓也も、心配そうに二人の様子を見守っていた。

「大丈夫か、健太。熱はないか？」

拓也が、健太の額に手を当てる。幸い、熱はなかった。しかし、傷の赤みは、次第に濃くなっていったように見えた。

「どうしよう…」

陽子は、どうすればいいのか、途方に暮れていた。夜も遅い。この集落で、夜間に急患を診てくれる医者はいない。

「まずは、綺麗に洗って、消毒しよう」

陽子は、冷静にそう判断した。子供の急所とはいえ、傷は傷だ。清潔に保つことが、何よりも大切だと、経験から学んでいた。

温かい湯で、健太の体を優しく洗い流す。健太は、その度に顔をしかめ、痛みに耐えていた。陽子は、息子の痛みに、自分のことのように胸を痛めた。

「もうちょっとだけ、我慢してね。すぐ終わるから」

陽子は、健太の耳元で、優しく囁いた。健太は、母の温かい声に、少しだけ安心したのか、じっと陽子の顔を見つめている。

消毒液をつけたガーゼを、そっと傷口に当てた。健太が、ビクッと体を震わせる。

「うわぁ…しみる…」

「ごめんね、健太。でも、これで菌が入らないようにするんだよ」

陽子は、傷口を優しく押さえながら、健太の背中をさすった。息子の小さな背中が、緊張でこわばっているのが伝わってくる。

「お母さん…」

健太が、弱々しく母の名を呼んだ。

「なあに？」

「…痛いよぉ…」

健太の言葉に、陽子の目から、じわりと涙が溢れた。祭りの賑わいは、もう遠い。今は、ただ、息子の痛みを和らげたい。その一心だった。

「…大丈夫だよ、健太。お母さんが、ちゃんと見ててあげるからね」

陽子は、健太の傷口を覆ったガーゼを、さらに優しく押さえながら、息子の額に自分の額をこすりつけた。息子の温かい体温が、陽子の冷たい頬に伝わる。

「…お母さんも、痛いの？」

健太が、不思議そうに尋ねた。

「ううん、お母さんは痛くないよ。ただ、健太が痛いのが、お母さんも痛いの」

陽子の言葉に、健太は、少しだけ安心したように、母の胸に顔を埋めた。陽子は、健太の髪を優しく梳きながら、息子の小さな背中を抱きしめた。

「もう、大丈夫だからね。ゆっくり眠ろうね」

拓也が、そっと陽子の肩に手を置いた。陽子は、涙で滲んだ視界で、拓也を見上げた。拓也の顔には、心配と、そして、陽子への労りの色が浮かんでいた。

「ありがとう、陽子」

拓也の穏やかな声に、陽子は小さく頷いた。

祭りの喧騒は、もう遠く、静寂が部屋を包み込んでいた。窓の外には、満月が静かに輝いている。その月明かりが、健太の寝顔に、淡く差し込んでいた。

陽子は、健太の傷口を、そっと、もう一度確認した。赤みは、少しだけ和らいだように見える。しかし、まだ、腫れは引かない。

「…神様、どうか、この子の痛みを、少しでも和らげてあげてください」

陽子は、静かに祈った。

健太は、母の温かい腕の中で、すうすうと寝息を立て始めた。痛みに耐えきれず、時折、小さく身じろぎをする。陽子は、その度に、息子の体を優しく抱きしめた。

祭りの灯火は、もう消えかけている。しかし、陽子の胸の中には、息子を想う、消えることのない灯火が、静かに燃え続けていた。その灯火は、幼い息子の傷を癒やす、何よりも温かい薬だった。

夜が明け、陽の光が部屋に差し込む頃、健太は、少しだけ元気を取り戻していた。腹部の痛みは、ほとんどなくなったという。そして、急所の傷も、昨夜の消毒と、母の温かい手当てのおかげか、赤みも少し引き、痛みが和らいだようだった。

「お母さん、ありがとう。もう、あんまり痛くないよ」

健太は、陽子に優しく微笑みかけた。その笑顔に、陽子の顔にも、自然と笑みがこぼれた。

「本当？よかった。でも、まだ、しばらくは、安静にしてないとダメだよ」

「うん！」

健太は、元気よく返事をした。拓也も、そんな二人の様子を見て、安心したように微笑んだ。

村祭りの夜に起きた、小さなアクシデント。しかし、それは、母の深い愛情と、家族の絆を、改めて浮き彫りにする出来事でもあった。祭りの賑やかな喧騒とは対照的な、静かで、しかし、温かい夜。その夜に灯された、母子の心の灯火は、健太の幼い傷を癒やすだけでなく、家族の絆を、より一層強く、確かなものにしたのだった。

夏の終わりの、小さな集落。祭りの余韻は、まだかすかに残っていた。しかし、子供たちの歓声も、屋台の甘い香りも、もう遠く。そこには、傷を負った息子を、静かに、そして深く愛しむ母の姿があった。そして、その母の愛こそが、何よりも強固な、そして温かい、村の灯火（ともしび）なのだと、陽子は静かに感じていた。