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## 陽炎と蜜柑の香り

梅雨明けの太陽が、アスファルトを焦がすように照りつける七月。五十路を過ぎた私、佐伯和子の日々もまた、そんな炎天下のように熱を帯びていた。退職金も底をつき、再就職先も見つからず、心身ともに衰えていく一方だと感じていた矢先、知人の紹介で始めたのが、介護ヘルパーの仕事だった。

「仕事は選んでられませんからね。」

そう自分に言い聞かせ、訪問介護ステーションに登録した。担当したのは、一人暮らしの高齢者宅への訪問。掃除、洗濯、食事の準備、そして何よりも、孤独な時間を少しでも和らげるための話し相手。それが私の仕事だった。

初めて担当することになったのは、西条さんという、六十代後半の男性だった。奥さんを亡くされ、一人で暮らしているという。初回の訪問は、緊張と不安で胸がいっぱいだった。どこか物悲しい雰囲気を纏った、背筋の伸びた方だった。

「佐伯さん、よろしくお願いします。」

深々とお辞儀をされた。その声は、長年使い込まれた古楽器のように、温かくも少し低かった。

最初は、仕事に集中しようと努めた。西条さんの生活パターンを把握し、必要なケアを迅速に行う。しかし、日を追うごとに、私の中に何かが芽生え始めていた。それは、単なる仕事への責任感や、高齢者への同情とは違う、もっと原始的で、抗いがたい衝動だった。

西条さんの家は、築年数は経っているものの、手入れが行き届いていた。窓からは、陽光がたっぷりと降り注ぎ、室内に温かい空気を満たしていた。特に、リビングの窓辺に置かれた蜜柑の鉢植えは、瑞々しい緑と、ほんのりと漂う甘い香りで、部屋全体を爽やかに彩っていた。

ある日の午後、いつものように西条さんの食事の準備をしていた時のことだ。西条さんは、ソファに座って、窓の外をぼんやりと眺めていた。その横顔に、ふと目を奪われた。長いまつ毛、少し窪んだ目元、そして、わずかに開いた唇。それは、老いを重ねた男性の、しかし、どこか色気を感じさせる姿だった。

その瞬間、私の心臓が、ドクンと大きく鳴った。これまで感じたことのない、熱いものが体中を駆け巡る。まるで、枯れ木に火がついたかのように。

「西条さん、お味噌汁、できましたよ。」

声が、わずかに震えた。西条さんは、ゆっくりとこちらを振り返った。その視線が、私の目に絡みついた。

「ありがとう、佐伯さん。いつも助かるよ。」

そう言って、微笑んだ。その微笑みに、私の体はさらに熱くなった。まるで、火照った肌に冷たい風が吹き付けられたかのような、背徳的な心地よさ。

それからの私は、西条さんの前で、いつも以上に自分を意識するようになった。身につける服も、ほんの少しだけ、体のラインが出るものを選んでみたり、香りの強いハンドクリームをつけたり。そして、西条さんの言葉や仕草に、過剰に反応してしまう自分に気づいていた。

ある日、西条さんが庭の手入れをしていると、顔に泥が跳ねてしまった。私がタオルを持って駆け寄ると、西条さんは、目を細めて私を見た。

「佐伯さん、君の顔、少し赤いんじゃないか？」

その言葉に、私は顔をさらに赤くしてしまった。動揺を隠すように、慌ててタオルを差し出した。

「いいえ、そんなことはありません。暑いだけです。」

しかし、内心では、西条さんの言葉が、私の胸に深く突き刺さっていた。私のこの異常なまでの熱情は、彼に気づかれているのだろうか。

この感情の奔流に、私はどうすればいいのか分からなかった。性欲、という言葉が、頭の中でぐるぐると回る。五十路を過ぎて、こんなにも激しい欲望に駆られるなんて、自分でも信じられなかった。しかし、それは紛れもない事実だった。

ある夜、自宅のベッドで、私は一人、この感情と向き合っていた。仕事で西条さんと過ごした時間のことを思い出す。彼の指先が、私の手に触れた時の微かな温もり。彼が笑った時の、喉仏の動き。それらが、私の想像力を掻き立て、眠りを妨げた。

「こんな私、どうなってしまうんだろう…。」

不安と、そして、抗いがたい興奮が、私を支配していた。

そんなある日、西条さんの体調が少し優れないという連絡が入った。いつものように、私は西条さんの家を訪れた。部屋は、いつもより薄暗く、西条さんはソファに横たわっていた。

「佐伯さん、来てくれたんだね。」

その声は、いつもより弱々しかった。私は、そっと西条さんの額に手を当てた。熱はない。

「大丈夫ですか？何かできることはありますか？」

私がそう尋ねると、西条さんは、ゆっくりと私を見た。その瞳は、いつものように穏やかではあったが、どこか、私を求めるような光を宿していた。

「佐伯さん、君と話していたいんだ。」

その言葉に、私は、心臓が跳ね上がるのを感じた。そして、その数秒後、西条さんは、私の手を取った。

「君には、いつも感謝しているんだ。でも、それだけじゃない。」

西条さんの指が、私の手を優しく撫でた。その感触に、私の体は、まるで電池が切れたように、力が抜けていくのを感じた。

「佐伯さん、君は、疲れているだろう？私と一緒に、休まないか？」

その言葉は、甘く、誘うようだった。私は、抗うことができなかった。いや、抗いたくなかったのかもしれない。

西条さんの指が、私の頬に触れた。その温かさが、私の心に染み渡っていく。そして、唇が、私の唇に触れた。それは、優しく、しかし、確かな熱を帯びたキスだった。

私は、目を閉じた。このまま、夢の中に溶けてしまいたいと思った。

それから、私たちの関係は、静かに、しかし、確実に変わっていった。ヘルパーとしての仕事は、これまで通り丁寧に行った。しかし、西条さんと二人きりになると、互いの距離は、急速に縮まっていった。

ある日、西条さんは、私に尋ねた。

「佐伯さん、君は、寂しくないのかい？」

その言葉に、私は、正直に答えた。

「寂しいです。とても。」

西条さんは、私の手を握りしめた。

「私もだよ。」

その夜、私たちは、互いの温もりを求め合った。それは、情熱的というよりは、むしろ、孤独を抱えた二人が、互いの温かさを確認し合うような、静かな夜だった。

もちろん、私は、自分の置かれた状況を理解していた。ヘルパーとして、そして、五十路を過ぎた女性として、この関係が、社会的にどう見られるか。しかし、その時、そんなことは、どうでもよかった。ただ、この温もりだけが、私を現実から解放してくれる、唯一の光だった。

「給与の少ないヘルパーは、性行為サービスで生活費を捻出しているケースがあるとかないとか…。」

どこかで聞いた、そんな噂話が、頭をよぎった。しかし、私の場合は、それは当てはまらない。西条さんとの関係は、金銭とは一切関係のない、純粋な、しかし、歪んだ、欲望と孤独の交錯だった。

西条さんの家は、いつも蜜柑の香りがしていた。その甘く、少し酸っぱい香りが、私の心を、そして、体を、満たしていく。陽炎のように揺らめく、この関係に、私は、溺れていくのかもしれない。

ある日、西条さんが、私に言った。

「佐伯さん、君の肌は、いつまでも綺麗だな。」

その言葉に、私は、顔を赤らめた。五十路を過ぎても、まだ、こうして、誰かに求められることがあるなんて。

西条さんの家を訪れるたびに、私は、自分の中に眠っていた、もう一人の自分を目覚めさせていた。それは、社会の枠組みからはみ出した、しかし、生々しい、そして、人間らしい、欲望に満ちた自分だった。

この関係が、いつまで続くのかは分からない。しかし、今は、ただ、この蜜柑の香りに包まれた、温かい時間だけが、私を支えていた。陽炎のように、儚く、しかし、熱く燃える、私の、五十路からの、秘密の夜は、まだ、始まったばかりだった。