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## 灰色の日常に咲いた緋色

朝焼けの柔らかな光が、カーテンの隙間から差し込み、真由美の疲れた顔を照らしていた。アラームが鳴る前に目が覚めるのが常だった。仕事、家事、育児… 彼女の日常は、休む間もなく回る歯車のように、ひたすら忙しかった。夫の健一は、朝早く家を出て、夜遅くに帰宅する。週末も仕事関連の付き合いでほとんど家にいない。

「ただいま…」

健一の声に、真由美はリビングから返事をする。どちらからともなく、会話は途絶えがちになっていた。昔は、二人で食卓を囲み、一日の出来事を話した。しかし、今は「疲れた」という言葉さえ、彼から聞くことは少なくなっていた。

「お疲れ様。」

真由美は、冷蔵庫からビールを取り出し、健一に手渡した。彼は黙ってそれを受け取り、ソファに沈み込む。テレビの無機質な光だけが、二人の間に流れる沈黙を照らしていた。

夜、寝室。真由美は健一の隣で横になった。かつては、熱い吐息と肌の触れ合いで満たされていた時間。しかし、今はまるで、他人同士のようだった。健一の寝息が静かに響く中、真由美は目を閉じた。心の中に、ぽっかりと開いた穴が、冷たい風に揺れているような感覚。寂しさ、虚しさ、そして、満たされない渇望。

ある土曜日。珍しく健一は終日休みだった。しかし、彼が向かったのは、ゴルフ仲間との集まりだった。真由美は、子供たちが学校に行っている間に、溜まった家事を片付け、一人、静かなリビングに座っていた。窓の外は、眩しいほどの晴天。しかし、彼女の心はどんよりとした曇り空だった。

「こんな日くらい、少しは…」

そう呟いた時、インターホンの音が響いた。誰だろう？ 宅配業者でもないし、セールスでもなさそうだ。訝しみながらドアを開けると、そこに立っていたのは、爽やかな笑顔の男性だった。

「こんにちは。もし、ご予定なければ、少しお話ししませんか？ 日差しが気持ち良いので、つい声をかけてしまいました。」

彼の名は、拓海。偶然通りかかった、という。その言葉に嘘はないだろう。彼の瞳には、下心のようなものは感じられなかった。ただ、純粋な好奇心と、温かい眼差しがあった。

真由美は、一瞬ためらった。しかし、拓海が醸し出す、穏やかで軽やかな雰囲気に、抗うことができなかった。

「えっと… 少しだけなら。」

結局、彼女は拓海をリビングに招き入れた。彼の話は面白く、真由美はいつの間にか、普段の自分では考えられないほど饒舌になっていた。仕事の愚痴、健一のこと… 溜め込んでいた言葉が、次々と溢れ出した。拓海は、ただ黙って、熱心に耳を傾けてくれた。

「疲れてるんですね、色々。」

拓海は、真由美の目を見つめながら、優しく言った。その言葉は、彼女の心の奥底に触れた。誰かに、本当に、見てもらえている、と感じた。

「はい… そうかもしれません。」

その日以来、真由美と拓海は、度々会うようになった。最初は、公園でのおしゃべりだった。やがて、カフェでランチをするようになり、時には、夕暮れ時の海辺を散歩することもあった。拓海は、真由美の趣味や好みを、驚くほど正確に理解してくれた。彼女が、どんな些細なことで喜び、どんなことで傷つくのか。まるで、彼女の心の声を聞いているかのようだった。

健一との関係は、依然として冷え切っていた。彼は、真由美が以前より少し元気になったことを、微かに感じ取っているようだったが、その原因を探ろうとはしなかった。真由美もまた、健一に拓海のことを話すことはなかった。それは、罪悪感というよりは、健一への諦めのようなものだった。

ある雨の午後。真由美は、拓海のアパートで、彼と二人きりだった。暖炉の火が、部屋を温かいオレンジ色に染めていた。拓海が淹れてくれたコーヒーを飲みながら、二人は静かに微笑み合った。

「真由美さん、綺麗ですね。」

拓海が、真由美の髪にそっと触れた。その瞬間、彼女の心臓が早鐘を打った。身体の中に、熱いものが駆け巡る。それは、長い間忘れていた、女性としての、あるいは、一人の人間としての、強い欲求だった。

拓海は、真由美の戸惑いを、優しく包み込んだ。彼の唇が、彼女の唇に触れた。それは、まるで、長年の渇きを癒す泉のような、甘く、そして、激しいキスだった。

「…健一さんのこと、もう、どうでもいいんですか？」

拓海は、真由美の耳元で囁いた。真由美は、目を閉じた。健一の顔が、一瞬、脳裏をよぎった。しかし、その顔は、もう、遠い昔の記憶のように曖昧だった。

「…もう、いいの。」

真由美の声は、震えていた。

その夜、真由美は、自分の中にある、抑えきれない欲望に身を任せた。拓海との時間は、彼女に、失われていた自分自身を取り戻させてくれた。毎日の忙しさの中で、いつの間にか、彼女は、自分自身を大切にすることを忘れていた。しかし、拓海は、そんな彼女の心を、そして、身体をも、満たしてくれる唯一の存在だった。

彼女は、健一との関係を、もう、修復しようとは思わなかった。その冷めきった関係に、未練はなかった。むしろ、彼女の心は、拓海という、新たな光によって、照らされていた。

「大丈夫？」

翌朝、健一が、いつもより早く帰宅した。真由美は、その声に、一瞬、ドキリとした。しかし、健一の顔には、いつもの疲労感だけがあった。

「ええ、大丈夫よ。あなたこそ、お疲れ様。」

真由美は、いつも通りの笑顔で答えた。健一は、何も疑うことなく、リビングのソファに沈み込んだ。

真由美の心の中では、静かな変化が起きていた。彼女は、もはや、ただの「働きづめの現代の人妻」ではなかった。灰色の日常に、鮮やかな緋色を咲かせた、一人の女性だった。健一を忘れていくことで、彼女は、自分自身を取り戻し、そして、更なる欲望を満たしていく。その変化は、誰にも止められない、彼女自身の、新たな人生の始まりだった。

鏡に映る自分の顔は、以前よりもずっと輝いて見えた。それは、単なる化粧の力ではなかった。内側から湧き上がる、満たされた幸福感と、秘めたる情熱が、彼女の顔を、そう見せているのだ。

「今日も、頑張ろう。」

真由美は、心の中で呟いた。仕事も、家事も、そして、拓海との時間も。全てを、全力で、受け止めていこう。灰色の空に、鮮やかな太陽が昇るように、彼女の日常も、これからも、色鮮やかに彩られていくのだろう。夫を忘れていく、美人妻たち。その一人である彼女は、今、静かに、しかし、力強く、新しい世界へと歩み出していた。