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## 刹那の宴

 neon cityの夜は、まるで巨大な蜃気楼のように、人々の欲望を照らし出していた。情報が奔流のように流れ込み、現実と虚構の境界線が曖昧になるこの時代。人々は、画面の向こうの他人の人生を覗き見、あるいは自らを曝け出すことで、繋がろうとしていた。

そんな夜、バー「蒼い水」のカウンターに、茜は座っていた。30代半ば。夫は仕事で忙しく、子供はもう手が離れつつある。日々の生活は穏やかで、何不自由ないはずだった。しかし、茜の心には、乾いた砂漠のような虚無感が巣食っていた。SNSのタイムラインには、キラキラした日常や刺激的な体験が溢れている。それに比べて、自分の人生はあまりにも単調で、色褪せて見えた。

「もう一杯、同じものを」

茜はバーテンダーに声をかけた。グラスの中で琥珀色に揺れる液体は、彼女の喉を焼くように通り過ぎていく。アルコールが回るにつれて、理性は少しずつ、しかし確実に緩んでいくのを感じた。

「あの…隣、よろしいですか？」

背後から、少し甘ったるい声が聞こえた。振り返ると、こちらを見つめる男がいた。歳は茜より少し下だろうか。整った顔立ちに、どこか人を惹きつけるような眼差し。しかし、その瞳の奥には、見慣れた、それでいてどこか探るような光が宿っていた。

「ええ、どうぞ」

茜は曖昧に微笑んだ。男は「ありがとう」と短く答え、茜の隣に腰を下ろした。

「今日は、お一人で？」

「ええ、まあ」

「僕もです。なんだか、こういう場所で一人で飲むのも、悪くないなと思って」

男はそう言いながら、茜のグラスに視線を落とした。その視線に、茜は微かな興奮を覚えた。まるで、見えない糸で繋がれたかのような、奇妙な感覚。

「お仕事、大変なんですか？」

「いや、そんなでもないですけど。ただ、ちょっと、刺激が足りないというか…」

男の言葉に、茜は思わず「わかります」と返してしまった。言葉にならない共感が、二人の間に不思議な連帯感を生み出す。男は、茜の言葉を逃さなかった。

「刺激、ですか。僕も、そういうのを求めてるんですよね。日常に、ちょっとした…スパイスみたいなものが欲しいなって」

男は、巧みに言葉を選びながら、茜の心の奥底にある渇望を揺さぶってくる。茜は、男の言葉に吸い寄せられるように、自分の日常の退屈さ、満たされない感情をぽつりぽつりと語り始めた。男は、時折相槌を打ち、時折共感の言葉を挟みながら、茜の話を熱心に聞いているようだった。

「なるほど。奥さん、そういう退屈さを感じてるんですね。でも、きっと、奥さんの中には、まだ眠ってるものが、たくさんあるんじゃないかなって、僕は思いますけど」

男の言葉は、まるで魔法のように、茜の心を優しく撫でた。自分の中の、抑えつけられていた「何か」が、ざわめき出すのを感じた。

「眠ってるもの…？」

「ええ。例えば、もっと解放されたいとか、誰かに求められたいとか、あるいは、自分でも知らない自分に出会ってみたいとか…」

男の言葉は、具体性を帯びながらも、どこか曖昧で、それを想像する余地を茜に残していた。茜は、男の視線から逃れるように、グラスを傾けた。アルコールと、男の言葉の甘さが、彼女の思考を鈍らせていく。

「でも、そういうのって…」

「リスク？ そうかもしれませんね。でも、人生って、リスクを取らないと、何も変わらないものじゃないですか？」

男は、そう言って、茜の指先にそっと触れた。その温かい感触に、茜の心臓は激しく脈打った。日常の安全な岸辺から、未知の海へと漕ぎ出すかのような、抗いがたい衝動。

「…この後、もしよかったら、もう一杯どうですか？ もう少し、静かなところで」

男は、茜の目をじっと見つめながら、そう誘った。茜は、数秒間、逡巡した。夫、子供、そして「普通」という名の仮面。しかし、それらの影は、もう彼女の心を支配することはできなかった。

「…はい」

茜は、震える声で答えた。

二人が店を出ると、夜風が肌を撫でた。男は、茜の手をそっと取り、歩き始めた。その導かれるような感触に、茜は自分自身が、まるで人形のように操られているような感覚さえ覚えた。

向かったのは、駅前のビジネスホテルだった。派手さはなく、しかし清潔感のある部屋。窓の外には、ネオンの光が遠くに瞬いている。

部屋に入ると、男はためらうことなく、茜の肩に手を置いた。

「茜さん、本当に綺麗ですね。隠してるのが、もったいないくらい」

男の言葉に、茜の顔は熱くなった。普段、夫からすら聞かないような、直接的で、しかしどこか誠実さを感じさせる褒め言葉。

「そんな…」

「いや、本当ですよ。その…静かな雰囲気の中に、すごく熱いものが、秘められてるのが、わかるんです」

男は、茜の耳元で囁いた。その息遣いが、茜の首筋をくすぐる。理性は、もう限界だった。

男の唇が、茜の唇に触れた。それは、探るような、しかし確かな意志を持ったキスだった。茜は、それに身を任せた。長年、心の奥底で求めていた、熱くて、激しい何かが、今、現実のものとなろうとしていた。

部屋の灯りが、ゆっくりと暗くなっていく。酒に酔い、理性は麻痺し、体は熱を帯びていく。茜は、自分がどこに向かっているのか、もはや分からなかった。しかし、その未知への恐怖よりも、抑えきれないほどの興奮が、彼女の全身を駆け巡っていた。

「もっと…」

茜は、吐息のように漏らした。男の指が、茜の服の隙間へと滑り込む。それは、まるで禁断の果実へと手を伸ばすかのような、甘く、危険な瞬間だった。

そして、その夜、茜は、普段の自分からは想像もできないような、激しい奔放さを解き放つことになる。それは、日常という名の檻から解き放たれた、刹那の宴。誰にも知られることのない、秘密の、そして官能的な時間だった。

翌朝、茜は、一人でホテルの部屋にいた。窓の外は、もう明るくなり始めている。昨夜の出来事が、まるで夢のように感じられた。しかし、体に残る微かな痛みと、胸の奥に宿る熱い残照は、それが紛れもない現実であったことを示していた。

茜は、そっと顔を上げ、鏡を見た。そこに映っていたのは、昨夜とは少し違う、しかしどこか解放されたような表情の自分だった。

「私、一体…」

呟く声は、まだ少し震えていた。しかし、その震えの中に、後悔よりも、かすかな希望の光が灯っているような気さえした。

neon cityの夜は、また別の場所で、別の欲望を掻き立てているのだろう。茜は、静かに部屋を出た。日常に戻る。しかし、彼女の心の中には、昨夜の「刹那の宴」が、鮮烈な記憶として刻み込まれていた。それは、彼女がこれから生きていく上で、時折、ふと蘇る、甘く、そして危険な誘惑となるのかもしれない。