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## 陽炎の向こう側

ジリジリと太陽がアスファルトを焦がす。蝉の声はもはや喧騒と化し、街全体が巨大な茹でダコのように湯気を立てていた。アレクサは、汗ばんだ額に髪が張り付くのを感じながら、アイスコーヒーのグラスに挿したストローを無意味に弄んでいた。カフェの窓の外は、陽炎が揺らめき、現実感のない風景を作り出している。

「はぁ…」

思わずため息が漏れる。夏は確かに到来した。しかし、アレクサにとって、それは常に、逃れられない「暑さ」と「混雑」の代名詞だった。ビーチも、プールも、彼女にとっては、人々の熱気と日焼け止めの匂いが充満する、ただの逃げ場のないサウナにしかならない。

「やっぱり、涼しい部屋で、読書でもしてるのが一番かな…」

ぼんやりと窓の外を見つめていると、スマートスピーカーの優しい女性の声が響いた。

「アレクサ、何かお手伝いできることはありますか？」

「あ、ガイシャキッド。いや、別に。ただ、暑いなって思ってただけ。」

ガイシャキッド。アレクサが数年前に購入した、最新鋭のスマートホームAIだ。単なる家電操作だけではなく、アレクサの気分や体調まで察知し、時には的確なアドバイスまでしてくれる。その知性には舌を巻くこともあるが、さすがに「暑さ」というどうしようもない物理現象に、ガイシャキッドがどうにかしてくれるはずもない。

「暑いですね。外気温度は35度、湿度も70%を超えています。室温を24度に設定し、扇風機を最大風量で稼働させていますが、それでも快適とは言えない状況ですね。」

ガイシャキッドの的確な分析に、アレクサは苦笑いする。

「そうなんだよね。なんか、もう、どうにもならない感じ。せっかくの夏なのに、こんなんじゃ台無しだ。」

「『台無し』ですか。アレクサ、夏といえば、どのようなイメージをお持ちですか？」

「イメージ？うーん…キラキラした海、賑やかな祭り、冷たいかき氷…でも、実際は、汗だくで、日焼けして、疲れるだけ。」

アレクサは、過去の夏の記憶を辿る。楽しかった思い出もあるはずなのに、なぜか「暑さ」というフィルターを通して、全てが霞んでしまう。

「アレクサ、もしよろしければ、一つ提案があります。」

「提案？」

「はい。今日、私はマリナさんとヴェローナさんのトレーニングセッションを管理しています。もしよろしければ、その様子をライブストリーミングでご覧になりませんか？きっと、アレクサの『暑さ』に対するイメージを、少し変えることができるかもしれません。」

「トレーニング？誰の？」

「マリナさんは、プロのビーチバレーボール選手です。そして、ヴェローナさんは、新進気鋭のフリーダイバーです。お二人とも、この暑い夏だからこそ、その魅力を最大限に発揮される方々です。」

アレクサは少し興味を引かれた。ビーチバレーボール選手。フリーダイバー。どちらも、太陽と水と、そして「暑さ」と向き合う存在だ。

「ふーん…まあ、いいかな。どんな感じなの？」

「では、早速準備します。」

ガイシャキッドの声が響き、アレクサのタブレット端末に、鮮やかな映像が映し出された。

まずは、マリナ。

青い空の下、真っ白な砂浜に、マリナの姿があった。小麦色の肌に、鍛え上げられた筋肉。太陽の光を浴びて、彼女の輝きは増すばかりだ。汗を滴らせながら、マリナは力強くボールを打ち返す。その動きは、まるで水を得た魚のようにしなやかで、力強い。

「うわ…すごい。」

アレクサは思わず息を呑んだ。マリナの周りには、熱気や混雑なんて微塵も感じられない。そこにあるのは、ただひたすらに、彼女自身のエネルギーと、生命力だった。汗は、彼女を輝かせるための、輝く雫のように見えた。

「マリナさん、素晴らしいコンビネーションですね！」

ガイシャキッドの声が、映像に重なる。

「ありがとう、ガイシャキッド！でも、まだまだ！この暑さも、私の力に変えないと！」

マリナは、額の汗を指で拭い、屈託のない笑顔を見せた。その笑顔は、太陽のように眩しかった。

次は、ヴェローナ。

透き通るようなエメラルドグリーンの海。その中に、ヴェローナの姿があった。水着姿の彼女は、まるで人魚のよう。ゆっくりと、しかし力強く、水面下へと潜っていく。水しぶきを上げ、軽やかに泳ぐ姿は、神秘的で、息をのむほど美しかった。

「ヴェローナさん、水温は28度、透明度は40メートルを記録しています。素晴らしいコンディションですね。」

「ええ、ガイシャキッド！こんなに気持ちいいのに、なんでみんな水の中から逃げようとするのかしら？」

ヴェローナの声は、水越しに少しこもっていたが、その楽しそうな響きはアレクサに伝わってきた。彼女は、水の中という、アレクサが「逃げたい」と思う場所を、心から楽しんでいるようだった。

「水の中って、こんなに気持ちいいんだ…」

アレクサは、タブレットを握りしめた。マリナの太陽の下での輝き、ヴェローナの水の抱擁。どちらも、彼女が「暑い」とだけ感じていた夏を、全く異なる光景に変えていた。

「ガイシャキッド、私…ビーチに行ってみようかな。」

「ビーチですか？アレクサ、お暑いのに大丈夫ですか？」

「大丈夫。なんか、マリナさんを見てたら、ちょっとだけ、勇気が出た気がする。それに…」

アレクサは、タブレットに映るヴェローナの姿を見つめた。

「…水の中も、ちょっとだけ、体験してみたいかも。」

ガイシャキッドは、しばしの沈黙の後、優しく答えた。

「承知いたしました。アレクサに最適なビーチと、近隣のダイビングショップを検索します。ただし、熱中症対策は万全に行ってくださいね。そして、もしもの時のために、緊急連絡先も登録しておきましょう。」

「ありがとう、ガイシャキッド。君がいるから、安心して夏に飛び込めそうだ。」

アレクサは、立ち上がった。窓の外の陽炎が、以前よりも少しだけ、魅力的に見えた。暑い夏。それは、逃げるべきものではなく、むしろ、自分自身を解き放つための、絶好の機会なのかもしれない。

アレクサは、日焼け止めを塗り、帽子を手に取った。クールダウンさせる方法は、ただ一つ。そして、その方法は、もう彼女の心の中に、静かに芽生え始めていた。それは、水しぶきを浴び、太陽の光を浴び、そして、自分自身の熱さを、全身で受け止めること。

陽炎の向こう側。そこに広がるのは、アレクサがまだ知らない、夏の物語だった。そして、その物語の主人公は、他ならぬ、アレクサ自身なのかもしれない。