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## 檻の中の蝶

「今日も一日お疲れ様です！」

元気な挨拶を放つのは、新米ADの佐藤健太だ。入社してまだ半年。憧れの映像制作会社「プレシャス・モーメント」の扉を叩いたのは、数々のドキュメンタリー番組を手がけるというこの会社の“リアル”に惹かれたからだった。しかし、現実は彼の描いていたものとは少し違っていた。

「佐藤君、ちょっといいかな？」

デスクに座る先輩ADの山崎が、ニヤリと笑って健太を呼んだ。手には、黒く無骨な小型カメラが握られている。

「これ、今回の素材。例のヤツだよ。」

“例のヤツ”。それは、健太がこの会社に入ってからずっと、胸に抱え続けているモヤモヤの正体だった。プレシャス・モーメントは、表向きは社会派ドキュメンタリーで高評価を得ているが、裏では、ある特定のジャンルの映像を制作しているという噂があった。それは、世間では「盗撮」と呼ばれるもの。

「女子寮、ラブホテル、オイルマッサージ店、悪徳不動産…」

山崎が口にした場所は、どれも「プライベート」という言葉が連想される場所ばかりだ。健太は、これらが実際に撮影された場所であることに、言いようのない不安を覚えた。

「今日のターゲットは、あの女子寮の新しい入居者だってさ。美人らしいぜ。」

山崎は無造作にカメラを健太に渡した。健太は、その冷たい感触に思わず身震いした。

「先輩…これは、本当に…」

「大丈夫だって。バレなきゃ、ただの『リアル』な映像なんだよ。それに、こういう映像が、結構売れるんだ。俺たちの給料にもなるんだから、感謝しろよ？」

山崎の言葉は、健太の良心を刺した。しかし、彼はまだADとして未熟であり、ここで反抗すれば、この会社にいられなくなるかもしれない。憧れの会社でのキャリアを、ここで断ち切るわけにはいかない。

健太は、重い足取りでカメラを手に取った。向かう先は、都心から少し離れた、閑静な住宅街にある女子寮。プレシャス・モーメントは、巧妙な手口で、そこに「忍び込ませる」ことに成功していた。

女子寮の敷地内は、夜の闇に静かに包まれていた。健太は、指示された場所、寮の裏手にある、人気のない植え込みの中に身を潜めた。手にしたカメラのレンズを、寮の窓の一つに、そっと向ける。その窓からは、明かりが漏れ、人の気配が感じられた。

「誰か、いる…」

健太の心臓が早鐘を打った。これから繰り広げられるであろう光景を想像すると、吐き気がした。しかし、彼は、このカメラに映し出される「リアル」を、ただ記録するだけの存在になるしかなかった。

数時間後、健太は、寮の窓から漏れる微かな光に目を凝らしていた。その窓のカーテンが、ゆっくりと開いた。そこに現れたのは、山崎が言っていた「美人」らしき女性だった。部屋の中は、間接照明で暖かく照らされ、彼女の姿が、まるで舞台の上の女優のように、鮮明に映し出されていた。

女性は、ベッドに座り、部屋着のボタンをゆっくりと外していく。その仕草は、どこか物憂げで、しかし、その瞳には、抗いがたい魅力が宿っていた。健太は、息を殺して、その姿を見つめた。カメラは、彼女の恥じらいと、解放を同時に映し出している。

「…なんで、こんなことを…」

健太は、呟いた。彼にとって、これは、ただの映像ではない。一人の人間が、誰にも見られていないと油断した、その瞬間の、あまりにも生々しい記録だった。彼女の表情には、安堵、解放、そして、微かな寂しさが入り混じっていた。

数日後、健太は、別の場所で、同じようにカメラを設置していた。今回は、ラブホテルの一室。部屋には、若いカップルがいた。彼らの会話は、甘く、そして、衝動的だった。健太は、カメラのモニター越しに、二人の熱に浮かされた顔を見つめていた。彼らの世界は、この部屋の中だけで完結しているように見えた。しかし、その「親密な時間」は、誰かによって、冷徹に記録されていた。

「リアルな姿は必見！！」

プレシャス・モーメントの募集広告に書かれたこの言葉は、健太の心に重くのしかかる。彼が記録しているのは、果たして「リアル」なのだろうか。それとも、誰かが意図的に作り出した、歪んだ「リアル」なのだろうか。

健太は、この日、オイルマッサージ店でも、悪徳不動産が管理する賃貸アパートでも、同様の「撮影」を行った。それぞれの場所で、それぞれの生活を送る女性たちが、無防備な姿を晒していた。彼女たちの「乱れた日々」は、健太の手に渡ったカメラの中に、無慈悲に記録されていく。

ある日、健太は、完成した映像クリップ集を、一人、自室で見ていた。そこには、様々な女性たちの、様々な「瞬間」が収められていた。寮の女性は、一人で涙を流す夜もあった。ラブホテルのカップルは、別れ際の言葉に、切なさが見え隠れしていた。マッサージ店の女性は、施術後の、疲れたような微笑みを浮かべていた。

「…みんな、何かを抱えているんだ…」

健太は、カメラのレンズを通して、彼女たちの、見え隠れする「人間らしさ」に気づき始めていた。それは、当初、彼が想像していたような、単なる「性的な対象」としての映像とは、どこか違っていた。

「こんな映像、本当に需要があるんだろうか…」

健太は、ふと、疑問に思った。こんな映像を見て、一体、誰が「リアル」だと感じるのだろうか。誰かのプライベートを、こんな風に覗き見ることの、何が「必見」なのだろうか。

その時、健太の頭の中に、ある考えが閃いた。もし、この「リアル」を、別の角度から見たら、どうなるだろうか。もし、この映像に、彼女たちの「声」を乗せたら、どうなるだろうか。

健太は、意を決して、プレシャス・モーメントの社長に直談判した。

「社長、これらの映像、もっと別の…つまり、彼女たちの『本音』を、もっと伝えるような、ドキュメンタリーにできないでしょうか。」

社長は、健太の突然の提案に、目を丸くした。

「健太君、君は『盗撮』の素材で、何をやろうとしているんだ？」

「これは、ただの『盗撮』じゃないと…彼女たちの、人間としての『リアル』だと、僕は信じたいんです。だから、彼女たちの声を聞きたいんです。この映像が、彼女たちにとって、どういう意味を持つのか…それを、伝えたいんです。」

健太の熱意は、社長の心を動かした。社長は、しばらく考え込んだ後、ゆっくりと口を開いた。

「面白い。君の『リアル』、見せてもらうとしよう。」

健太は、プレシャス・モーメントの「檻」の中で、新しい「リアル」を、自らの手で作り出そうとしていた。それは、誰かの「乱れた日々」を晒すのではなく、誰かの「本当の顔」を引き出すための、小さな、しかし、確かな一歩だった。檻の中の蝶は、まだ、その羽を広げ始めたばかりだった。