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## 診察室の迷宮

午後の陽射しが、使い込まれた診察台を白く照らしていた。白衣を纏った男、名は亮介。肩で息をしながら、額の汗を拭った。その隣には、同じく白衣姿の女性、沙織が立っている。彼女の頬は薄桃色に染まり、息を荒げている。そして、もう一人、看護師の制服を着た女性、美咲が、少し離れた場所で、複雑な表情を浮かべていた。

「カット！」

低い声が、診察室に響き渡る。声の主は、奥に陣取った男、撮影監督の田村だった。彼は、顎髭を撫でながら、不機嫌そうに腕を組んでいる。

「亮介、もっと情熱的に！沙織の肩を抱く時、躊躇すんな！美咲、お前はもっと嫉妬に狂った顔をしろ！設定は、三角関係なんだから、もっとドロドロした感情を出せ！」

亮介は、気まずそうに頭を掻いた。彼は、内科医として数年目の若手医師だが、今日の彼は、俳優だった。

「すみません、田村さん。でも、やっぱり、どうしても、こういうのは慣れなくて…」

「慣れろ！今日はスケジュールが詰まってるんだ。早く終わらせないと、編集が間に合わない。これは、プロの仕事なんだから、ちゃんとやれ！」

沙織は、亮介の肩にそっと手を置いた。彼女は、同じ病院に勤務する看護師であり、亮介とは同期入社だ。

「亮介、大丈夫よ。私も最初は戸惑ったけど、段々慣れてきたから。それに、これも患者さんのためになるんだから」

「患者のため？これが？」

亮介は、思わず声を上げてしまった。彼は、田村から今回の依頼を受けた時、耳を疑った。病院の経営難を打開するために、医療ドラマ風の動画を制作し、その動画を配信サイトで有料配信するというのだ。しかも、その動画には、過激なラブシーンが含まれている。

「患者さんへの啓蒙活動ですよ。病気の知識を深めてもらうために、エンターテイメント性も必要なんです。それに、亮介先生と沙織さんは、病院のアイドルみたいな存在じゃないですか。二人が出演すれば、絶対に見る人が増えますよ！」

田村は、もっともらしいことを並べ立てた。亮介は、渋々ながらも、上司に説得され、今回の撮影に参加することになったのだ。しかし、いざ撮影が始まると、彼は、その非現実的な状況に戸惑うばかりだった。

美咲は、じっと二人を見ていた。彼女もまた、亮介と同じ病院に勤務する看護師であり、亮介に密かに想いを寄せている。今回の撮影の話を聞いた時、彼女は、胸が締め付けられるような痛みを感じた。亮介と沙織が、診察室で、愛し合う姿を演じる。それは、彼女にとって、耐え難い苦痛だった。

「美咲さん、大丈夫ですか？顔色が優れないようですが…」

亮介が、心配そうに声をかけた。

「…大丈夫です。それより、早く撮影を終わらせましょう」

美咲は、無理やり笑顔を作った。

撮影は、再開された。亮介は、田村の指示に従い、沙織を抱きしめ、甘い言葉を囁いた。しかし、どうしても、心がこもらない。彼は、医者として、患者を救うために、日々努力してきた。しかし、今、彼は、患者を喜ばせるために、嘘の愛を演じている。その矛盾が、彼の心を蝕んでいた。

沙織は、亮介の気持ちを察していた。彼女もまた、今回の撮影に、複雑な感情を抱いていた。しかし、彼女は、病院のために、そして、亮介のために、精一杯、役割を演じようとしていた。

「カット！亮介、もっと大胆に！沙織の服を脱がせろ！」

田村の声が、再び響き渡る。亮介は、顔をしかめた。彼は、そこまでやるつもりはなかった。

「あの…田村さん、そこまでしなくても…」

「何言ってるんだ！視聴者は、それを期待してるんだぞ！早くしろ！」

田村は、声を荒げた。亮介は、覚悟を決めた。彼は、震える手で、沙織の白衣のボタンを外そうとした。

その時、診察室のドアが、勢いよく開いた。

「先生！大変です！急患です！」

一人の看護師が、息を切らして飛び込んできた。彼女は、亮介の顔を見るなり、叫んだ。

「交通事故です！多発外傷で、意識不明！すぐに処置が必要です！」

亮介は、一瞬、呆然とした。しかし、すぐに、医者としての本能が蘇った。

「わかった！すぐに準備する！」

亮介は、白衣を脱ぎ捨て、手術着に着替えた。沙織も、すぐに看護師の制服に着替え、亮介をサポートした。美咲も、冷静な表情で、必要な医療器具を準備した。

診察室は、一瞬にして、緊急手術室と化した。田村は、唖然として、その光景を見つめていた。

亮介は、集中力を高め、患者の治療に当たった。沙織と美咲は、彼の指示に従い、的確にサポートした。三人とも、プロの医療従事者としての顔に戻っていた。

数時間後、手術は無事に成功した。患者は、一命を取り留めた。

亮介は、疲労困憊しながらも、安堵の息を吐いた。

「…助かってよかった」

沙織は、亮介の肩を叩いた。

「亮介、お疲れ様。本当にすごいわ」

美咲も、亮介に近づき、小さく微笑んだ。

「先生、お見事でした」

亮介は、二人の顔を見つめた。彼は、初めて、自分が何をすべきか、理解した気がした。

「…ありがとう。でも、これは、僕だけの力じゃない。みんなで協力したからこそ、助けられたんだ」

亮介は、田村の方を向いた。

「田村さん、すみません。今日の撮影は、これで終わりにさせてください」

田村は、まだ納得していなかった。

「しかし、まだ、ラブシーンが…」

「もう、そういうのは、いいんです。僕は、医者として、患者さんを救うことしか、考えられません」

亮介は、きっぱりと言った。沙織と美咲も、亮介の言葉に賛同した。

田村は、諦めたように、ため息をついた。

「…わかりました。今日は、これで終わりにしましょう」

田村は、機材を片付け始めた。

亮介は、沙織と美咲に、深々と頭を下げた。

「今日は、本当に、ご迷惑をおかけしました」

「気にしないで。私も、色々と勉強になったわ」

沙織は、優しく言った。

「私もです。先生の、本当の姿を見ることができて、よかったです」

美咲は、恥ずかしそうに言った。

亮介は、二人の言葉に、胸が温かくなるのを感じた。

夕暮れ時、亮介は、病院の屋上に立っていた。彼は、遠くの街並みを眺めながら、深く息を吸い込んだ。

彼は、今日の出来事を振り返った。最初は、戸惑い、反発した今回の撮影。しかし、彼は、その中で、自分が本当に大切にしているものに気づくことができた。それは、患者を救うという、医者としての使命だった。

そして、彼は、沙織と美咲への、感謝の気持ちでいっぱいだった。彼女たちは、彼の迷いを打ち払い、正しい道へと導いてくれた。

亮介は、空を見上げた。夕焼け空が、鮮やかなオレンジ色に染まっていた。

彼は、心の中で、誓った。

これからは、医者として、患者を救うために、全力で生きよう。そして、沙織と美咲との絆を大切にし、共に、困難を乗り越えていこう。

彼は、新たな決意を胸に、病院の中へと戻っていった。診察室の迷宮から抜け出し、彼は、真の医者として、歩み始めたのだ。