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## 晩夏の陽炎

「ただいま、お義父さん」

夕焼けが差し込むリビングに、美咲の声が響いた。築三十年を超える平屋は、どこか懐かしい匂いがする。美咲は玄関でパンプスを脱ぎ、スリッパに履き替えた。

「ああ、美咲ちゃん、おかえり」

奥の和室から、義父の正太郎がゆっくりと姿を現した。穏やかな笑顔を浮かべているが、その目はどこか焦点が定まっていない。

正太郎は二年前からアルツハイマーを患っている。症状は徐々に進行しており、特に最近は美咲のことを恋人と勘違いすることが多くなっていた。

「今日は遅かったね。ご飯、まだだったでしょ？ 美咲ちゃんのために、ちゃんと温めてあるよ」

「ありがとうございます、お義父さん。でも、今日は少し疲れたので、先にシャワーを浴びてもいいですか？」

「ああ、構わないよ。ゆっくり休んでね」

美咲は軽く頭を下げ、洗面所へ向かった。蛇口をひねり、冷たい水で火照った頬を冷やす。鏡に映る自分の顔は、疲労の色が濃い。

結婚して五年。夫の健太は仕事が忙しく、ほとんど家にいない。正太郎の介護は、実質的に美咲が一人で担っている。

「まさか、私がこんな生活を送ることになるとは…」

呟きは、虚しく水音に消された。

美咲が正太郎の日記を見つけたのは、数か月前のことだった。古びた文机の引き出しの奥に隠されていたその日記には、正太郎の病状の進行とともに、徐々に混乱していく彼の心の葛藤が綴られていた。

そして、その日記の最後に、医者から告げられた正太郎の余命が、あとわずかであることが記されていた。

美咲は衝撃を受けた。正太郎の認知症が悪化していることは感じていたが、まさか余命宣告を受けているとは知らなかった。

その日から、美咲は正太郎に対する接し方を変えた。できる限り笑顔で、優しく接するように心がけた。正太郎が恋人と勘違いした時は、否定せずに、彼の言葉に耳を傾けた。

しかし、美咲の心には、複雑な感情が渦巻いていた。罪悪感、戸惑い、そして、ほんの少しの…好奇心。

数週間後、正太郎が脳梗塞で倒れた。一命は取り留めたものの、半身不随となり、リハビリが必要になった。

健太と相談した結果、美咲は正太郎を自宅で介護することを決めた。

「お義父さんのことを、見捨てるわけにはいかないから」

健太は美咲の決意を尊重し、全面的に協力することを約束した。

こうして、美咲と正太郎の奇妙な同居生活が始まった。

リハビリは困難を極めた。正太郎は自分の体の自由が利かないことに苛立ち、美咲に辛く当たることもあった。

しかし、美咲は根気強く正太郎を励まし続けた。マッサージをしたり、一緒に散歩に出かけたり、昔の話を聞かせてあげたり。

そんな美咲の献身的な介護のおかげで、正太郎は少しずつ回復していった。

ある晩、美咲は正太郎の着替えを手伝っていた。シャツのボタンを留めようとした時、正太郎が突然、美咲の手を握った。

「美咲ちゃん…、ありがとう。いつも、本当にありがとう」

正太郎の目は、いつもよりはっきりと美咲を見つめていた。

「お義父さん…」

美咲は戸惑いながらも、正太郎の温かい手に包まれた。

「美咲ちゃんは、本当に優しいね。まるで…、僕の愛した…」

正太郎はそこで言葉を詰まらせ、寂しそうな表情を浮かべた。

「お義父さん…、大丈夫ですよ」

美咲は正太郎の手をそっと握り返した。

その瞬間、美咲の心に、言いようのない衝動が走った。正太郎の優しい瞳、温かい手の感触、そして、彼が抱える孤独と悲しみ。

美咲は、正太郎に近づき、そっと頬にキスをした。

正太郎は驚いたように目を見開いたが、すぐに目を閉じ、美咲のキスを受け入れた。

二人の唇が触れ合った。それは、まるで禁断の果実を口にするかのような、背徳的な快感だった。

美咲は、正太郎の温かさを感じながら、自分が越えてはならない一線を越えてしまったことに気づいた。

しかし、もう後戻りはできなかった。

その日から、美咲と正太郎の関係は、少しずつ変化していった。美咲は、正太郎の介護をする中で、彼の肉体的な欲求にも応えるようになった。

昼間は献身的な介護をする嫁、夜は義父の愛人。美咲は二つの顔を持つようになった。

美咲の心は、罪悪感と背徳感、そして、快楽と愛情が入り混じり、複雑に揺れ動いていた。

ある日、健太が仕事で数日間、出張することになった。美咲は、正太郎と二人きりで過ごすことへの不安を感じながらも、どこか期待している自分に気づいた。

健太が出張に出かけた夜、美咲は正太郎の部屋を訪れた。

「お義父さん…、眠れましたか？」

正太郎は、薄暗い照明の下で、静かに横たわっていた。

「美咲ちゃん…、来てくれたんだね」

正太郎は弱々しい声で言った。

美咲は、正太郎のベッドに腰掛け、彼の手を握った。

「お義父さん…、私…」

美咲は、自分の気持ちを言葉にすることができなかった。

正太郎は、美咲の手を握りしめ、優しく微笑んだ。

「美咲ちゃん…、ありがとう。君がいてくれて、僕は本当に幸せだよ」

正太郎の言葉に、美咲の胸は締め付けられた。

彼女は、正太郎の言葉に甘え、彼の身体に身を委ねた。

翌朝、美咲は後悔に苛まれた。自分がしてしまったことの重大さを改めて認識し、罪悪感に押しつぶされそうになった。

しかし、同時に、正太郎との触れ合いの中で感じた、忘れられない快楽と愛情もまた、美咲の心を捉えていた。

数日後、健太が出張から帰ってきた。美咲は、健太に自分の罪を告白しようとしたが、どうしても言葉にすることができなかった。

そんな美咲の様子に気づいた健太は、心配そうに美咲を見つめた。

「美咲、何かあったのか？ 顔色が悪いぞ」

「ううん、大丈夫よ。少し疲れているだけ」

美咲は無理やり笑顔を作った。

健太は、美咲を優しく抱きしめた。

「無理をするなよ。お義父さんのことは、俺も手伝うから」

健太の言葉に、美咲は涙をこらえた。

美咲は、健太の優しさに触れ、自分の罪深さを痛感した。

彼女は、このまま秘密を抱え続けるのか、それとも、全てを告白するのか。

美咲の心は、晩夏の陽炎のように、揺れ続けていた。

（終わり）