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## 還暦の夜

古びた木造アパートの二階。畳の軋む音と、時折、遠くを走る車の音が、静寂を切り裂く。部屋の隅に置かれた古いラジオからは、懐かしい歌謡曲が微かに流れていた。

佐藤春子、62歳。しわが深く刻まれた顔には、歳月が刻んだ確かな歴史が刻まれている。それでも、その瞳の奥には、何かを求めるような、強い光が宿っていた。隣には、夫の健太郎が横たわっている。同じく65歳。若い頃はガッチリとした体格だったが、今は少しばかり痩せて、丸みを帯びた姿になっている。彼の寝息が、規則正しく、静かに響いていた。

春子は、そっと布団を抜け出した。台所へ向かい、ガスコンロに火をつけ、湯を沸かし始めた。カチカチと小さな音が、静かな部屋に響く。湯が沸騰するまでの間、春子は窓の外を眺めていた。夜空には、まばらに星が瞬いている。

「もう、還暦か…」

春子は小さく呟いた。還暦。人生の大きな節目。昔は、赤いちゃんちゃんこを着て祝うものだった。しかし、今の自分には、そんなお祝いは似合わない気がした。

結婚して40年。健太郎とは、見合い結婚だった。お互いに特別な感情があったわけではない。ただ、周りが結婚していく中で、なんとなく、流れに乗っただけだった。

若い頃は、それなりに幸せだったと思う。子供も生まれ、家を建て、生活は安定していた。しかし、いつの頃からか、二人の間には、見えない壁ができていた。会話は少なくなり、お互いの存在を、空気のように感じるようになっていった。

夫婦生活も、惰性で続けているだけだった。若い頃のような情熱はとうに冷め、ただ義務的に、体を重ねるだけ。お互いに快楽を感じることもなく、ただ、形だけを保っていた。

春子は、熱いお湯を急須に注ぎ、茶葉が開くのを待った。立ち上る湯気と共に、茶葉の香りがふわりと広がる。急須から湯呑みに、お茶を注ぎ、ゆっくりと口に運んだ。温かいお茶が、冷え切った体をじんわりと温めていく。

その時、背後から、健太郎の声が聞こえた。

「春子、どうした？こんな時間に」

春子は振り返らずに答えた。

「目が覚めたの。少し、お茶を飲もうと思って」

健太郎は、ゆっくりと起き上がり、春子の隣に腰掛けた。

「そうか…。俺も、少し喉が渇いたな」

春子は、もう一つの湯呑みにお茶を注ぎ、健太郎に渡した。健太郎は、静かにお茶をすすった。

しばらくの間、二人は黙って、お茶を飲んでいた。ラジオから流れる歌謡曲だけが、静かな空間を埋めていた。

沈黙を破ったのは、健太郎だった。

「春子…」

「なに？」

「あの…、今日は、何か…、しないか？」

春子は、少し驚いた。最近、健太郎からそんなことを言われたことはなかった。

「…どうして？」

「いや…、なんとなく。たまには、昔みたいに…」

春子は、健太郎の顔を見た。彼の目には、かすかな期待と、少しの不安が入り混じっていた。

春子は、少し考えた。そして、静かに答えた。

「…いいわよ」

健太郎は、少しホッとしたように、小さく微笑んだ。

春子は、湯呑みを置き、健太郎の手を取った。彼の手に触れた瞬間、春子の心に、懐かしい感覚が蘇った。

二人は、ゆっくりと寝室へ向かった。

布団に入り、向かい合って座る。お互いの顔を、じっと見つめ合った。

春子は、健太郎の顔をゆっくりと撫でた。彼の顔に刻まれたしわを、一つ一つ確かめるように。

健太郎は、春子の手を握りしめた。

「春子…、綺麗になったな」

春子は、少し照れくさそうに微笑んだ。

「お世辞でも嬉しいわ」

健太郎は、春子の体をゆっくりと抱きしめた。

二人の体温が、ゆっくりと重なり合う。

長い間、忘れていた感情が、春子の心に湧き上がってきた。健太郎の温もり、彼の匂い、彼の声。全てが、懐かしく、愛おしい。

春子は、健太郎の唇に、そっとキスをした。

そのキスは、優しく、温かく、そして、どこか切ないものだった。

二人は、ゆっくりと、体を重ね合わせた。

激しい情熱はなかった。ただ、お互いを求める、静かな愛情だけがあった。

長い年月を経て、初めて、二人は、心と体で、深く結びついた。

夜が明け、太陽が部屋を照らし始めた。

春子は、健太郎の腕の中で、目を覚ました。

隣には、健太郎が眠っている。彼の寝顔は、穏やかで、安らかだった。

春子は、そっと布団を抜け出し、台所へ向かった。

ガスコンロに火をつけ、朝食の準備を始めた。

朝食を作りながら、春子は、昨夜のことを思い出していた。

激しい情熱はなかった。しかし、確かに、二人の間には、愛があった。

40年の歳月を経て、初めて、春子は、健太郎を愛していることに気づいた。

そして、健太郎もまた、春子を愛していることに気づいたのだ。

還暦の夜。二人は、お互いの愛を再確認し、新たな人生を歩み始めることを決意した。

それは、激しい情熱に満ちたものではないかもしれない。しかし、静かで、穏やかで、そして、深く愛に満ちた、素晴らしい人生になるだろう。

春子は、朝食をテーブルに並べながら、小さく微笑んだ。

「健太郎、朝よ。起きて」

健太郎は、ゆっくりと目を覚まし、春子に向かって微笑んだ。

二人は、手を取り合い、朝食を食べ始めた。

ラジオからは、軽快な音楽が流れていた。

その音楽は、まるで、二人の新たな人生を祝福しているかのようだった。

窓の外には、明るい太陽が輝いていた。

これから始まる二人の人生は、きっと、素晴らしいものになるだろう。

なぜなら、二人の間には、愛があるから。

還暦を迎えた夫婦の、静かで、穏やかな、そして、深く愛に満ちた物語は、これから始まる。