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## 錆びついた鍵の向こう

「あのホテル、最近調子悪いのよね」

喫茶店の隣の席から聞こえてきた、ひそやかな囁き。耳にしたのは、この街でひっそりと、しかし確実に愛を育む（あるいは、育もうとする）人々が利用する、あのラブホテル「月影」のことだ。経営者の父から長年受け継いだその場所には、私、神代 悠（かみしろ ゆう）にとって、誰にも言えない秘密と、幾ばくかの罪悪感が染み付いていた。

月影は、一見すると古びた、しかしどこかノスタルジックな趣のあるラブホテルだった。しかし、その裏側には、父が密かに仕掛けた「仕掛け」があった。それは、ホテルを利用する人々の「記録」。誰にも知られずに、彼らの隠された姿を捉えるための、悪趣味とも言える仕掛けだった。父は、それを「人間の本質」と呼んだ。私は、それを「罪」と呼んでいた。

父が亡くなり、私が月影の経営を引き継いでから、もう一年になる。父が遺した「記録」は、今も私の手元にある。それは、USBメモリに保存された、無数の映像ファイル。父は、それを「コレクション」と呼んでいた。私は、それを「呪い」のように感じていた。

その日、私はいつものように、父の書斎で、その「コレクション」を眺めていた。褪せたソファに身を沈め、モニターに映し出される映像に目を落とす。そこには、様々な人間模様が映し出されていた。

最初に映し出されたのは、色白で華奢な体つきの女性。隣にいるのは、彼女の夫の同僚だと名乗る男だった。互いの名前すら知らず、ただただ、刹那的な快楽を求め合う二人の姿。彼女の頬に浮かぶ紅潮、指先が絡み合う様子。それは、夫への裏切りであり、自分自身への裏切りでもあった。しかし、その瞳の奥には、どこか悲しげな、しかし抗えない衝動に突き動かされているような、生々しい感情が宿っていた。

次に現れたのは、爆乳の誉れ高い、近所に住む兄嫁だった。彼女の隣には、彼女の義弟がいた。血の繋がりを越えた、禁断の愛。義弟の熱い眼差しと、兄嫁の戸惑いながらも応じる仕草。それは、親族という関係性が生み出す、歪んだ情欲の形だった。兄嫁の喘ぎ声が、薄い壁越しに聞こえてくるようだった。

そして、CDショップで働いているという、巨乳の女性。彼女の相手は、自称音楽プロデューサー。甘い言葉を囁き、彼女の心を掴もうとする男。彼女は、音楽への情熱と、現実からの逃避を求めて、このホテルに足を踏み入れたのだろうか。男の指が、彼女の柔らかな肌をなぞる。その指先から、音楽のように、あるいはそれ以上の情熱が、二人を包み込んでいた。

さらに、隣の部屋に浪人生がいるという、巨乳の美人妻。彼女の相手は、その浪人生だった。おそらく、日常からの逃避、あるいは、勉強の合間の息抜き。しかし、そこには、互いに惹かれ合い、逃れられない感情が芽生え始めているかのようだった。妻の吐息が、薄い壁を震わせる。浪人生の、まだ青臭さを残した声が、部屋に響き渡った。

そして、さらに数組。誰にも知られることなく、本能のままに貪り合う人妻たち。彼女たちの顔には、罪悪感、解放感、そして、どこか虚無感が入り混じっていた。父は、この映像を見て何を思っていたのだろうか。人間の醜さ、弱さ、そして、抗えない欲望。それらを、彼はただ記録していただけなのか。

私は、この「コレクション」をどうすべきか、ずっと悩んでいた。父の遺志として、このまま残すべきなのか。それとも、この罪深い記録を、すべて消し去るべきなのか。

その日、私は、ある決断を下した。

あの、色白の女性の映像を、もう一度再生する。彼女の顔に、夫への罪悪感と、隣にいる男への微かな期待が入り混じっているのが見て取れる。彼女は、この瞬間を、どう思っていただろうか。後悔しているのか、それとも、この刹那に生きていたのか。

私は、USBメモリを手に取った。指先で、その冷たい金属の感触を確かめる。この中に、どれだけの人生が、どれだけの秘密が、どれだけの罪が詰まっているのだろうか。

ふと、父の言葉を思い出した。「悠、人間は、誰しも隠し事を持っている。それを、どう扱うかで、その人間の価値が決まるんだ」。

父は、私に何を託したかったのだろうか。この「コレクション」を、ただの覗き見趣味として終わらせるのではなく、何か意味のあるものとして、捉えてほしいと願っていたのだろうか。

私は、パソコンの電源を入れた。そして、USBメモリを差し込む。

画面に現れる、数えきれないほどのファイル名。一つ一つに、日付と、簡単な内容が記されている。

私は、それらの一つ一つを、見つめ直すことにした。ただの覗き見としてではなく、それぞれの人生の断片として。彼女たちが、なぜこのホテルに来たのか。何を求めていたのか。そして、この後、どうなったのか。

それは、父が望んだこととは違うのかもしれない。あるいは、父が本当に望んでいたことなのかもしれない。

私は、最初のファイルを開いた。色白の女性の映像だ。彼女の顔を、じっと見つめる。

「あなたは、一体、何を求めていたの？」

その問いかけに、映像の中の彼女が応えることはない。しかし、私は、彼女の瞳の奥に、かすかな光を見た気がした。それは、希望の光なのか、それとも、絶望の光なのか。

私は、この「コレクション」を、ただの罪の記録として終わらせない。彼女たちの人生に、かすかでも光を当てられるような、そんな方法を見つけたい。

それは、容易な道ではないだろう。しかし、父から受け継いだこの「呪い」を、何かに変えることができるならば。

私は、ゆっくりと、しかし確かな意志を持って、キーボードに指を置いた。

月影の錆びついた鍵は、まだ私と共に、多くの秘密を抱えている。そして、私は、その鍵の向こう側にある、人々の隠された真実を、見つめ続けていくのだろう。それは、私自身の、罪との向き合い方でもあるのだから。