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「また遅くまで残業？ 今日も俺が駅まで迎えに行ってやるよ。」

妻の智子は、そう言って俺の予定を事細かに聞いてくる。残業時間、終電の時刻、明日の出張の有無。まるで、俺の行動を把握することが彼女の義務であるかのように。最初は、俺を心配してくれているのだろう、そう思っていた。独身時代は夜遅くまで職場で過ごすことが当たり前だった俺に、彼女は「無理しないでね」といつも温かい言葉をかけてくれた。結婚してからも、その優しさは変わらない。いや、むしろ増しているようだった。

携帯電話は、彼女にとって肌身離さず持つものになった。以前はリビングのテーブルに無造作に置かれていたのに、いつの間にか充電器の隣から離れなくなり、トイレに行くときも、寝るときも、常に彼女の手に収まっている。画面に誰かの名前が表示されるたび、彼女は一瞬、顔色を変える。そして、すぐに平静を装う。その仕草に、俺はかすかな違和感を覚えていた。

「この服、どう思う？」「今日の髪型、変じゃない？」

最近、彼女は鏡の前で過ごす時間が増えた。いつも以上に化粧に時間をかけ、新しい服を買い漁るようになった。職場にも、以前とは違う香りの香水をつけ始めた。その変化は、誰の目にも明らかだった。俺の知っている、少し天然で、いつも俺を立ててくれる智子とは、どこか違う。

「智子、最近なんか変わった？ 何かあった？」

意を決して、そう尋ねたことがある。彼女は一瞬、目を泳がせた後、満面の笑みで「別に何も！ あなたに心配かけたくないだけだよ」と、俺の髪を撫でた。その笑顔は、いつものように俺を安心させた。だが、心の奥底では、その笑顔の裏に隠された何かを、俺は感じ取っていた。

メンタルの弱い自分を自覚していた俺は、その違和感を意図的に無視した。考えれば考えるほど、不安は増幅していく。もし、彼女が俺以外の誰かを見つけたとしたら？ もし、俺の知らないところで、彼女が別の人生を歩もうとしているとしたら？ そんな恐ろしい想像に囚われるのが怖くて、俺は目を瞑り、耳を塞いだ。

「疲れてるんだろ？ ゆっくり休めばいいんだよ。」

俺は自分にそう言い聞かせた。彼女を信じたい。彼女は俺にとって、唯一無二の存在だから。この平和な日常を壊したくなかった。だから、俺は現状維持を選んだ。問題から目を背け、無かったことにして。

そして、その選択が、最悪の結末を招いた。

ある日の夜、俺はいつもより早く帰宅した。残業が早く終わったのだ。玄関のドアを開けると、リビングからは明かりが漏れていた。だが、いつも聞こえてくるはずの彼女の声はしない。

「智子？ 帰ってきたよ。」

返事はない。リビングに入ると、そこには誰もいなかった。キッチンも、寝室も、どこにも彼女の姿はない。ただ、テーブルの上に、一枚の紙切れが置かれていた。

震える手で、その紙切れを拾い上げる。それは、彼女からの手紙だった。

『ごめんなさい。』

そのたった一言から始まる手紙は、俺が恐れていた現実を、冷酷に突きつけてきた。彼女は、俺とは別の道を歩むことを選んだのだ。理由を幾つか書いてあったが、俺の頭にはほとんど入ってこなかった。ただ、「あなたを愛していました」という言葉だけが、リフレインのように響いた。

衝撃で、手紙を握りしめたまま、俺は床に崩れ落ちた。涙が止まらない。どうして、もっと早く気づいてあげられなかったのだろう。どうして、彼女のサインを見逃してしまったのだろう。残業の予定を詳しく聞くこと、携帯を肌身離さず持つこと、化粧や髪型を気にするようになったこと。すべてが、俺への別れの準備だったのだ。

彼女が選んだ「別の道」は、俺が想像していたものとは少し違っていた。彼女は、俺の親友である健一と、数ヶ月前から関係を持っていたのだ。俺が仕事で忙しく、家を空けることが多かった間、彼女は健一に心の支えを求めていた。そして、その支えは、やがて愛へと変わっていった。

俺が残業で遅くなる日、智子は健一と会っていた。俺が出張で家を空ける日、智子は健一と過ごしていた。携帯を肌身離さず持っていたのは、健一からの連絡を待っていたからだ。化粧や髪型を気にしていたのは、健一と会うためだった。

すべてが、今、鮮明によみがえってくる。あの時の違和感、あの時の不安。俺は、それらを「考えすぎ」だと片付けていた。彼女を傷つけたくない、この幸せを壊したくない、そんな甘い考えが、俺の目を曇らせていた。

「望んでいたのかもしれない…」

ふと、そんな言葉が口をついて出た。それは、あまりにも残酷な、そして、あまりにも自分勝手な考えだった。しかし、俺の心の中には、否定しきれない感情が渦巻いていた。

俺は、智子との関係に、どこか息苦しさを感じていたのかもしれない。彼女はいつも俺を立て、俺の意見を尊重してくれた。しかし、それは時に、俺の存在が彼女のすべてであるかのように感じさせ、俺に重圧を与えていた。彼女の優しさが、俺を逃げ場のない世界に閉じ込めていたような、そんな感覚。

健一と智子の関係を知った時、俺は怒りよりも、ある種の安堵感を覚えてしまったのだ。それは、彼女が俺から離れていくことへの恐れではなく、俺自身が、この関係から解放されることへの、漠然とした期待だったのかもしれない。

智子が俺から離れていったことで、俺は「メンタルの弱い自分」から抜け出せるのだろうか。彼女に依存していた自分から、自立できるのだろうか。この残酷な結末は、俺にとって、ある意味で、新たな始まりを意味するのかもしれない。

窓の外は、いつの間にか夜が明けてきていた。空には、まだ星が瞬いている。俺はこのまま、この部屋で、彼女が残した温かいマグカップを握りしめ、静かに夜明けを迎えるのだろう。そして、この経験を糧に、もう一度、強く生きなければならない。

過去の兆候に気づきながらも、それを無視してしまった自分を責めることは容易い。だが、そんな後悔ばかりを抱えていても、何も変わらない。俺は、この痛みを抱きしめながら、前を向いて歩いていくしかないのだ。智子が選んだ道は、俺の道ではなかった。だが、俺は、俺自身の道を見つけなければならない。それが、彼女への、そして、何よりも自分自身への、最後の誠意なのだろう。