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## 居酒屋の灯火、偽りの情熱

夕暮れ時、薄桃色のネオンが滲むように夜の帳が降りてくる。新橋の雑踏を掻き分け、中年男性、健一はいつものように「鳥鳥」の暖簾をくぐった。彼の唯一の楽しみ、それがこの居酒屋通いだった。日々の単調な仕事から解放され、酒の温かさと適度な喧騒に身を委ねる時間。それだけが、彼を生き生きとさせる唯一の要素だった。

健一は、もともと口が達者で、場の空気を読むのも得意だった。多少の無理も、持ち前のノリと勢いで押し切ってしまう。そんな彼は、居酒屋を「狩場」と呼んでいた。狙いは、一人で静かに飲んでいる、少し寂しげな雰囲気の美人妻。彼女たちの孤独にそっと寄り添い、束の間の夢を見せるのが、彼の密かな愉しみであり、自己肯定感を得る方法でもあった。

今宵、健一の視線は、カウンターの端でグラスを傾ける一人の女性に釘付けになった。細い首筋、艶やかな黒髪、そして時折見せる憂いを帯びた表情。まさに、彼の理想とする「美人妻」だった。彼女の名前はすみれ。結婚4年目にして、夫とのセックスレスに悩む、貞淑な妻だ。夫との仲は悪くない。ただ、それだけにいっそう、自分に原因があるのではないかと、健一は彼女の横顔に、かすかな希望の光を見た。

「こんばんは。一人で寂しいですか？」

健一は、いつものように巧みな言葉で話しかけた。すみれは、少し驚いたように顔を上げたが、健一の温かい笑顔に、警戒心を解いたようだ。

「ええ、少し。主人が出張で、なんとなく…」

「わかりますよ。せっかくの金曜日なのに、一人で飲むなんて、もったいない。俺も、こうして一人で飲ってるんですけどね」

健一は、すみれの隣に腰を下ろし、自然な流れで会話を続けた。お酒が進むにつれて、すみれの表情は和らぎ、健一の話に楽しそうに相槌を打つようになった。健一は、すみれのさりげない仕草や言葉の端々から、彼女の抱える孤独と、それを埋めようとする切実な願いを読み取っていた。

「すみれさん、実は…」

健一は、ある計画を胸に抱いていた。それは、この居酒屋の近くにある、自分の隠れ家のような部屋へ彼女を誘い込むこと。そこには、事前に巧妙に仕掛けられたカメラが設置されていた。もちろん、それは彼が以前から温めていた、ある種の「趣味」のためだ。そして、その部屋で、彼はすみれを、なんとかしてセックスへと持ち込もうと決意していた。

一方、すみれの隣の席には、もう一人の女性がいた。せな。彼女もまた、今夜は一人で酒を飲んでいた。本来なら、久しぶりの女子会だったはずが、急な用事で友人がキャンセルになり、今更一人で家に帰るのも気まずい。家事万能な義母の存在が、家での居場所をなくさせているという側面もあった。せなは、グラスに注がれたワインを、虚ろな目で眺めていた。

健一は、すみれとの会話の合間に、せなの存在にも気づいていた。彼女の疲れた表情、しかしどこか芯の強さを感じさせる瞳。健一は、すみれとの「狩り」に集中していたが、せなの存在も、彼の好奇心をくすぐるものがあった。

「すみれさん、もしよかったら、うちでゆっくり飲み直しませんか？もう少し、お話がしたいなと思って」

健一は、自信に満ちた声で、すみれに提案した。すみれは、一瞬ためらったが、健一の情熱的な眼差しと、自分を必要としてくれるような言葉に、抗うことができなかった。

「…いいんですか？」

「もちろん！せっかくの出会いですから。それに、すみれさんのような素敵な女性と、もっとお話したいんです」

健一は、すみれの手をそっと握った。その温かさに、すみれは、ほんの少しだけ、胸の奥が温かくなるのを感じた。

健一は、すみれを連れて、用意しておいた部屋へと向かった。部屋は、薄暗い照明と、ゆったりとしたソファが置かれ、大人の空間を演出していた。すみれは、少し緊張した面持ちで、健一の顔を見つめた。

「どうぞ、楽にしてください」

健一は、すみれにワインを勧め、自分も隣に座った。カメラがどこかに仕掛けられているとは、露ほども知らないすみれは、健一の優しい言葉に、次第に心を許していく。健一は、すみれの結婚生活のこと、セックスレスのこと、そして彼女自身の心の奥底にある孤独について、根掘り葉掘り聞き出した。すみれは、まるで長年抱えていた悩みを吐き出すかのように、次々と健一に語りかけた。

「…私、本当にダメな妻なんでしょうか…」

すみれは、涙ぐみながら呟いた。健一は、そんなすみれの肩を抱き寄せ、優しく頭を撫でた。

「そんなことないですよ、すみれさん。あなたは、とっても素敵な方です。ただ、あなたをちゃんと見つめてくれる人が、周りにいなかっただけかもしれない」

健一の言葉は、すみれの心に深く染み込んだ。彼女は、健一の胸に顔を埋め、嗚咽を漏らした。健一は、この時が来たと確信していた。

「すみれさん…」

健一は、そっとすみれの顔を上げさせた。そして、情熱的なキスを落とした。すみれは、一瞬抵抗したが、健一の熱に、抗うことができなかった。二人の体は、絡み合い、部屋は愛欲に包まれていく。カメラは、そのすべてを静かに捉えていた。

その頃、せなは、まだ「鳥鳥」のカウンターで一人、グラスを空けていた。彼女の隣にいたはずの健一の姿は、もうどこにもなかった。せなは、ふと、健一がすみれという女性と親しげに話していたのを思い出した。

「あの人、もしかして…」

せなは、不審に思いながらも、店を出た。夜風が、彼女の頬を撫でる。彼女の心には、健一へのかすかな失望と、そして、自分もまた、何かに導かれるように、この場所に来たような、不思議な感覚が残っていた。

健一は、すみれとの一夜を終え、満足げな表情で部屋を出た。カメラに収められた映像は、彼のコレクションに加わることだろう。彼は、次にどんな「狩り」ができるか、すでに胸を躍らせていた。居酒屋の灯火が、彼にとっては、偽りの情熱を灯す、特別な場所だった。

すみれは、翌朝、健一の部屋で目を覚ました。昨夜の出来事を思い出し、顔が赤くなる。しかし、彼女の心には、不思議な解放感があった。セックスレスという重圧から解放されたような、そして、誰かに必要とされたような、そんな温かい感情が彼女を包んでいた。

せなは、その夜、健一に会うことはなかった。しかし、彼女の心には、健一という男の存在が、かすかな波紋を投げかけていた。もしかしたら、彼女もまた、いつか健一のような男に「狩られる」日が来るのかもしれない。あるいは、彼女自身が、この街のどこかで、誰かを「狩る」側になるのかもしれない。

居酒屋の灯火は、今日もまた、多くの人々の孤独を照らし、そして、時に、欲望を掻き立てる。健一、すみれ、せな。それぞれの夜が、この街の片隅で、静かに、しかし確かに、交差していた。